『善の研究』を読む⑧
文字数 4,219文字
と言う。
学問というのが、単なる知的アクロバットに過ぎないのだとしたら、
それがこの私の人生にとって、何になろう!って思うよね、たしかに。
西田は【知識においての真理はただちに実践上の真理であり】(P125)と言う。
これはもう、第三篇「善」のところを踏まえるなら、わかるよね?
深く自己を知ることがすなわち、そのまま「善」へと、実践の問題へとスライドしていく。
知ることと、実践することは、重なる。
いや、重なるべきなんだ。
まずは、そもそも、この世界の真の姿、実相、真なる実在が何たるかを突き止めねばならぬ、
と、西田は言う。
それでは、その真実在とはなにか?
もう、言ったよね?
〈はたらき〉
だよ。
ちなみに、この〈はたらき〉を、西田は第二編では統一的或者なんて用語で語っている。
あるいは不変的或者と書いたりもする。
あるいは「理」と書いたりもする。
用語バラバラで、
わかりにくー
まずは、ぼくらにとって、なにより(内なる)意識現象として感じられるものだ。
だってそうでしょ、ぼくらは無媒介的に直接外界の〈はたらき〉を知ることはできないから。
西田のロジックでは、いわば内なる「底」を突き破って、
この世界をこの世界たらしめている〈はたらき〉を感得することができるようになる。
ちなみに、ぼくらは、起きていれば基本、意識している、ことを意識しているのだが、
このような、意識(していること)を対象としている意識ではなく、
その根本にある、根底的な意識の〈はたらき〉そのものを、
西田は直接経験と呼ぶ。
あるいは純粋経験とも呼ぶ。
西田は言う。
直接経験=純粋経験においては、主観と客観、見るものと見られるもの、
知覚する主体と、客体、とか、
そういった二分法は、未だ立ち上がっていない。
まぁ簡単に言うと、
ぼくらが一般的な意味で、日常的な意味で使う意識というのは、
純粋経験の中から立ち上がってくるものでしかなく、
ぼくらは意識してはじめて、いま、ここにいる、この私を感じているわけだから、
その意識が立ち上がってくる前、を問題とするならさ、
未だこの私は立ち上がっていない、ということになる。
私がないんだから、その相手もない、つまり外界がない、内と外の区別がない。
だってそれはさ、神様の視点に立った、ものの見方でしょ。
神様の視点に立ち、人間と、環境とを見比べている。
まぁなんというか、いわば一人称的に考えるとね、
まずはぼくらの根底にある直接経験=純粋経験=〈はたらき〉あるのみ。
でね、この〈はたらき〉から、さっき言ったように、
それこそ、ぼく私、自我が立ち上がってくるんだが、
と同時に、内が立ち上がるんだから、
外も分別して立ち上がり、通常、客観的世界として、ぼくらが普段とらえているものもまた立ち上がってくることになる。
ぼく私、と世界、まぁ要するに、主体と環境、がある、
と考えちゃダメ。
そうではなく、主体と環境があらかじめあるのではなく、そうではなく、
〈はたらき〉がまず在り、
その〈はたらき〉の渦中において、主体が主体となり、環境が環境となる。
そのときは、それこそ、ぼくも車も環境もなく、すべてが混ざり込んでて、
〈はたらき〉と一体化してるような感じになっちゃってるよね。
ところが、ハッと我に返ったとき、
改めて、私を私として、車を車として、環境を環境として、立ち上げ直す。
ぼく私、人間の場合、
「脳-身体-環境」という系が、相互作用の系が、
まずは連結して、カップリングして、〈はたらき〉として在るだけ。
のち、その相互作用の海から、事後的に、いろんなものが分節化されてく。
たとえばさ、テニス選手にとって、ラケットは体の一部だが、ゲームが終われば、ラケットは対象物に戻ってしまうだろう。
言ってしまえば、選手とラケットがあるのではなく、
あるのはただ、それらの相互作用のみ。
相互作用のはたらきかた如何により、
ラケットは自分の一部ともなり、あるいはただの物体、対象物ともなる。
ラケットはあらかじめ、主体の側にあるのでもなければ、客体の側にあるのでもない。
すべては相互作用のはたらきかた如何に依存する。
もっとも、もっと厳密に言うと、ラケットもまた、事物として存在するものではない、
ということはすでに述べたが、わかりにくくなるので、まぁよしとしよう。
ちなみに、オートポイエーシスなんて言うけれども、
生物の細胞も、あらかじめ固定的に存在するのではなく、
そのはたらきにおいて、はたらきながら、常に境界を画定しつづけることによって、
細胞が細胞たり得ている。
まぁ要するにさ、あらゆる意味で事物を画する境界とは事前にあるものではなく、
〈はたらき〉によって、〈はたらき〉の渦中において、相互作用の過程で、
相互作用において、あくまでも事後的に定まってくる、
もっと言うと、境界を絶えず絶えず定め続けていく運動、活動なんだな。
【純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである。】(P155)
主観(主体)があり、客観(環境)がさ、もし事前に定まっていたとするなら、
いわゆる「逆さメガネ」実験について、どう思う?
世界が上下反転して見えてしまうメガネを着用して生活してるとさ、
最初は苦しむんだけど、時間の経過と共に、それなりに適応できてしまうらしい。
これって、どういうことだと思う?
要は、人間って、主体と環境との相互作用において、アジャストしながら、
主体を主体として、環境を環境として、いわば都度都度、立ち上げ直し、再定義しつづけてるんだよ。
さっき言ったとおりだ。
あらかじめ主体が完成しており、環境も確たるものであったとするなら、
「逆さメガネ」のせいで、絶えず環境を誤認し続けてしまう主体は、
永遠に間違ったことをしつづけるしかない。
けれど実際はそうじゃない。
あらかじめ主体は完成していない。
主体は事後的に生成されていく。
だからこそ、主体と環境との相互作用において、
主体は環境にアジャストすることができるようになる。
ただし、一点、注意が必要。
繰り返しになるけど、あらかじめ完成した主体があるのではなく、
事前に存在するのは〈はたらき〉=相互作用の海のみであり、
その〈はたらき〉の渦中において、
事後的に、普通の私、あるいは、「逆さメガネ」に適応した私がさ、
都度都度、立ち上がってくるわけさ。
それを人間が受動的に知覚してるんじゃないんだよ。
知覚は受け身じゃない。
事後的に、後になって、知覚が成立してから後、
それがあたかも受け身であったかのように、外界をキャッチしてるだけのように感じられるだけ。
未だ知覚が一般的な意味での知覚となる前、
知覚が目下活動中の時点においては、〈はたらき〉があるのみ。
その相互作用の海においては、知覚は受動的ではなく、能動的な側面がある。
だから西田は、知覚にも能動的な側面がある、と言ってるし。
実際、最新の脳科学的成果も、それが正しいと示している。
たとえば視覚。
視覚は通常、外界の情報をキャッチしているだけのようにみえる。
だがじつは、そうじゃない。
たとえば、ぼくが朝起きて、トイレへ向かう。
このとき、純粋に受け身で外界をキャッチしているのではなく、そうではなく、
事前に、脳処理の方で、あそこにトイレがあるはずだし、
おおむね部屋のレイアウトはこうなってるはずだよね、ってな感じで、
いわば、外界をキャッチする以前から、あるいは同時に、
脳内イメージが、たとえるなら絵が、立ち上がってくるんだ。
これって、情報処理の理論からすると、ある意味当然で、
その都度その都度、ぜんぶの「絵」を描いてたら大変でしょ。
アニメでもそうじゃん。毎回毎回、背景をゼロから描いてたら大変でしょ。
次のコマもおおむね同じなら、転用し、違ったところだけ書き足せばいいじゃん。
じつは脳も、同じことをしている。
間引けるところは間引いている。
つまり、視覚は100%受け身ではなく、こっちから描いてる側面があるわけ。
いわば間引いてズルしてるから、いつもと異なるところがあると、
あ!と思い、びっくりするわけ。注意が引きつけられる。
ここで、素朴かつ鋭い質問がでてくるように思う。
それって、独我論じゃね?と。
つまり、この世界が、ぼく私も、すべてが、
この私の意識の、さらに根底にある意識現象、〈はたらき〉、
純粋経験の渦中から立ち上がってくるのはわかった、そうだ、そうだとしよう。
ってことはさー、この世界のすべては、
ぼく私の「意識」の中に入っちゃってるってこと?
この世界に存在する、絶対確実なものは、ぼく私の「意識」だけで、
客観的な外界の存在は証明することができず、幻のようなもの、ってこと?
独我論じゃん!
というツッコミがくるような気がする。
しかしそれは、完全に誤解だ!
西田哲学は独我論じゃない。
次に、それを解説しよう。