『善の研究』を読む⑨
文字数 2,020文字
【意識を離れて世界ありという考えより見れば、万物は個々独立に存在するものということができるかも知らぬが、意識現象が唯一の実在であるという考えより見れば、宇宙万象の根底には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。】(P190)
【我々の思惟意志の根底における統一力と宇宙現象における統一力とはただちに同一である】(P173)
このように世界があるように、立ち上げている〈はたらき〉がある。
この私を、このように立ち上げてくる〈はたらき〉は、その一部であり、
かつ、その根源的な〈はたらき〉と同一(同質)のものであった、よね。
だとするなら、
真に存在すると言えるものは、自分の(狭い意味での)意識だけである、
とかいう独我論とはね、根本的にロジックが違うんだよ。
西田はべつに、真に存在すると言えるものは、狭い意味での自己意識だ、っつってんじゃないよ。
真に存在するものは、この〈はたらき〉だ、と言っている。
これを仏教では、一即多、多即一、なんて言うけれども、
要するに、この〈はたらき〉から万物が立ち上がってくるのだが、
煎じ詰めれば、元は一つ、ということ。
だからね、この私の意識だけが真に実在するものと言えるものだー、とかいう独我論とは、
まったく違う!ということがわかるよね?
【実在は矛盾によって成立する】(P174)、【矛盾と統一とは同一の事柄を両方面より見たものにすぎない】(P174)と言う。
つまり、煎じ詰めれば、同じ一つの〈はたらき〉なんだが、
そこに矛盾を内包しており、この矛盾が契機となり、多へ分派していく。
さっき話した、車を運転してて、ボーっとしてたら、いつの間にか自宅まで帰っていた、とかいう、ほぼ無意識の運転についてだ。
このとき、いわば「脳-身体-環境」の系は、反省的に意識されることもなく、
ボーっと運転しているうちに、混ざり合った、相互作用として、ある意味、的確に、ルーティーンな感じで、作動していく。
ところが、たとえば、突然、目の前を老婆が横切ったとしよう。
ハッ!と我に返り、慌ててブレーキを踏む、なんてことがある。
それは、いつも通る道で、まさに運転がルーティーン化してしまい、慣れてしまい、
ボーっとしてても、それなりにうまくいってしまうのだが、
見慣れたものでないもの、いつもと違うもの、要は、矛盾、
この場合は、突然なる、唐突なる、予期せぬ老婆の出現によって、
ハッと我に返り、そこで、途端に、自分は自分、車、外界、信号、老婆、と、
世界が一気に分節化されていく。
このたとえが適切かどうかはさておき、イメージくらいはつかめたと思う。
なにも矛盾がなければ、相互作用の海原は、まさに海原のままなんだよ。
矛盾を契機に、相互作用の関係性が、つながりが、分別されていく。
と、なってしまい、いわゆる他者の存在についてはどうなの?
とかいう難問が発生してしまうが、
西田の場合、そうはならない。
根源的な〈はたらき〉から、この私が立ち上がってくるように、
当然、他者もまた立ち上がってくる、ということになるから。
また、私と他者が理解しあえるのは、
煎じ詰めれば、この同じ〈はたらき〉の中から立ち上がってきたのだからだ、となる。
【他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と見なすことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根底には普遍的なるものがある。我々はこれにより互いに相理解し相交通することができる。】(P186)
第二編「実在」については、
結局、実在とは〈はたらき〉であり、実体ではなく活動なんだ、ということ、以上、おわり。
これを、この第二編では、直接経験やら、純粋経験やらの用語を使って語っているわけ。
ちなみに、最後の部分では、
この〈はたらき〉を、「神」とする。
【この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せるものではない。実在の根底がただちに神である。主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一したものが神である。】(P228)