『善の研究』を読む①

文字数 2,693文字

それじゃ早速、

西田幾多郎『善の研究』から読み進めるとしよう。

え、いきなりですか?

前置きなし?

このページを閲覧してるってことは、

すでに西田幾多郎については、ある程度知ってるってことなんだろうと思うし、

余計な前置きしてると、

それだけで随分と長くなってしまうから・・・・・・

伝記的なお話は、都度都度、随時、折にふれてしていくことにするよ。

了解で~す。

にしても、西田幾多郎『善の研究』は、超々難解!って言われてますよね~。

ついていけるかなぁ・・・・・・

ぶっちゃけ、こう言うと専門家の人に怒られそうだが、

ぼくはね、『善の研究』のどこが難しいのかよくわからない。

言ってることは、とてもシンプルだし、

もっと言うと、研究者の方々が心酔(崇拝?)するほど、

そこに独創性があるとも思えない。

個人的には、西田哲学がおもしろくなってくるのは、

中期から後期にかけてだと思うよ。

え~、でも、『善の研究』っていうと、

難解な哲学書の代名詞みたくなってないですか?

それを簡単だと言う?

普通に簡単でしょ。

ちなみに、西田幾多郎というと『善の研究』、

『善の研究』というと西田幾多郎、

難解な哲学書の代名詞、というよりは、

西田幾多郎自身の代名詞になっちゃてる感はあるが、

これはある意味、かわいそうだな、と思う。

かわいそう?
『善の研究』は、言うまでもなく、

西田幾多郎の最初期の著作でしょ。

その後、彼の思想(哲学)は飛躍的に展開していくんだよね。

ぼくの好きな格闘技でたとえるならさ、

どんどん強くなっていくんだよね。

それをさぁ、毎回毎回デビュー戦だけで評価されてもねぇ・・・・・・

どう思う? みんながみんな、デビュー戦の録画だけをみてさぁ、

デビュー戦だけで、自分のことを評価されてたらさ。

心外だよね?

まぁ、たしかに・・・・・・
実際、西田幾多郎本人が語っている。

たとえば、大正10年、再版されたときの序では、

【この書を出版してからすでに十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。京都に来てから読書と思索とにもっぱらなることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。したがって、この書に対しては飽き足らなく思うようになり、ついにこの書を絶版としようと思うたのである。しかし、その後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、ふたたびこの書を世に出すこととした。】(P20)


あ、ちなみに、引用はすべて、

西田幾多郎『善の研究』全註釈:小坂国継、講談社学術文庫、2006

からもってくるね。

絶版まで考えたってことは、

基本的にそこで述べられてるようなことはもう、

自分の中では乗り超えられてしまった過去、みたいな感じなんですかね~?

昭和11年、版を新しくしたときの序では、

【この書は私が多少とも自分の考えをまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考えにすぎない。】(P23)

と書いてるし。

なるほど、完全に過去形だわ。
でしょ。

だからさ、『善の研究』だけ読んでね、西田哲学はもう理解した! とか、

あるいは、もっと上から目線でね、西田哲学なんてこの程度か、

なんて思われちゃったりすることが、もしあるのだとしたら、

西田幾多郎が、かわいそうでねぇ・・・・・・ある意味、同情してしまうよ。

あの~、だとしたら、

西田哲学はむしろ、おっさんが言うように、中後期がおもしろいのだとしたら、

なんでこうも『善の研究』だけがピックアップされちゃうんですか?

おっさん?
え?

おっさんでしょ、普通に。

・・・・・・甘んじて受け入れることとしよう。


それはさておき、『善の研究』がブレイクしたキッカケをつくったのは、

戯曲『出家とその弟子』などで当時ブレイクしていた倉田百三(1891-1943)

彼は、大正10年に発表した哲学的な人生論『愛と認識との出発』の中で、

『善の研究』を取り上げ、絶賛した。

で、絶版していた『善の研究』が、12年、岩波書店から復刊されることになる。

『善の研究』には、なんとなーく、そいつを読めば人生についてわかるんじゃね的なオールがまといつくようになり、若者たちの間で認知されるようになっていく。

タイトルもよかったかもしれない。

もともと西田は『純粋経験と実在』という書名にしようとしてたらしいが、

こいつがタイトルだったら、いかにも専門書っぽい、というか、ガチ哲学書っぽくもあり、

若者たちが、とりあえず(気軽に)手に取ってみようと思ったかどうか・・・・・・

『善の研究』というと、もう少し幅広な感じがするでしょう?

実際、西田が折れた理由も、序に、

【この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占めおるにもかかわらず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。】(P16)

と書いてるし。


あの~、一応ざっくりとなんですが、『善の研究』読んではみたんですが、

これのいったいどこに人生の問題がでてくるのか、人生の問題と関係するのか、

さっぱりわかりませんでしたー

わかる。素直な感想だね。わかるよ。

でも実際、キチンと読解すれば、完全に人生の問題を扱っているのがわかるよ。

そのへんは、これから順番に超解説してくからね~。ご心配なく。

ただ一点、先取りして言っておくなら、

西田にとって、哲学することと、生きることは完全に一致するから。

たとえば、かの有名なアリストテレスは、哲学は驚きからはじまる、なんて言ったが、

西田の場合は違って、哲学は「悲哀」からはじまる、みたいなことを書いている。

その意味は、もっと後で話すことにして、

『善の研究』はたしかに、人生の問題にふれているよ。

まぁとりあえず、超解説しくよろでーす。
あ、そうそう、余談だが、

太平洋戦争が終わった、東京の焼け野原でね、

神田の岩波書店が『西田幾多郎全集』第一巻として、

『善の研究』を出した。昭和22年のことだよ。

なんとこのときは、若者たちを中心に大行列ができた!

もっと言うと、これ、前のほうは徹夜行列だったんだよね。

店のまわりを二回りしてたという。

つまりそれだけ、そいつを読めば、生きていく上で、なにか大切なものが得られる、という期待値が高かったってことなんだよ。

ちなみに、ぼくが若かった頃はというと、

若者たちの大行列はね、ファミコンソフト『ドラゴンクエスト』に変わっていたね。

へぇー、

西田幾多郎全集の行列が、

ドラゴンクエストの行列へ変貌、か。なんかおもしろい。

それを若者たちの知的退化と言うのかどうかは、さておき、

興味深いエピソードではある。

さてと、本題に入ろう。
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