『善の研究』を読む④
文字数 4,020文字
すべてごちゃ混ぜにして語ってしまうのは暴力的だし、
専門家の人から怒られてしまうのだろうが、
こんなところで、すべてを詳細に論じつくしてる余裕なんてないから、
ざっくり、大雑把に、それらに共通するところをだけを述べておく。
今、ここに、ぼく、この私がいる、
と思うようね。そんなの当たり前だよね。
けれど、本当は、何度も同じこと繰り返し言っちゃうんだけど、
ぼく、私、というのは実体ではない、ということなんだ。
あるいは一般に、近代的自我、と呼ばれるものともズレが生じる。
もっと言うと、かの有名な、あまりにも有名な、
ルネ・デカルト(1596-1650)の「我思う、ゆえに我あり」という考え方とは、まったく違う考え方がここで展開されることになる。
デカルトは、絶対確実に実在するものを思弁的に探求し、
そうだ! 我在りだ! と思い至り、こいつを哲学の第一原理に据えるんだが、
西田哲学的には、トンデモ級の勘違いだと言える。
ぼくも普通に間違ってると思うしね~
とりあえず、ぼくら日本人なんだからさ、
デカルトばかりみてないで、
もう少し西田幾多郎に注目してもよさそうな気がする。
我が実体ではないとするなら、何なのか。
我の本性が「空」だとするなら、我とは何なのか。
それは結局、またしても、空即是色と重なってくるんだけど、
我とは実体ではないけれど、
あたかも、それが実体であるかのように立ち上がってくる、いつもいつも。
つまり、我を我として立ち上げてくる〈はたらき〉がある、ってことなんだ。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を批評して、
そいつはつまり、
はたらきがある、ゆえに、はたらきの主体がある、と考えてしまう誤謬推理だ!
と、どこかで書いていた。
つまり、根本的な主体が在り、そいつがはたらいている、とデカルトは考えちゃってるが、そいつは間違いだよ、と、ニーチェも指摘している。
あらかじめ実体Aがあり、はたらいている、ンじゃないんだよ。
そうではなく、
〈はたらき〉の渦中において、実体Aが(あたかもそれが実体であるかのように)立ち上がってくる、ンだよ。
内在してるんだよ。
だからさっき、西田の「神」の話をしたけれど、
「神」もまた同じで、「神」=〈はたらき〉なんだからさ、
あらかじめ「神」が実在し、その「神」が何らかのはたらきをしている、ンじゃなく、
〈はたらき〉そのものが「神」なんだよ。
だから西田は言う。
この世界は「神」が造ったのではなく、「神」の表現なんだ、と。
西田の言う「我」とは、必ずしもデカルトの「我」を全面否定というよりは、むしろ、
デカルトの「我」の向こう側まで突き抜けいる、とも言える。
つまり、デカルトが思い描いた「我」の根底に、そのような「我」があるものと、ぼくらに思わせてしまうような〈はたらき〉がある、ってことなんだ。
この〈はたらき〉を、西田は「我」ではなく、自己と表記する。
【我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来るのである。小は我々の一喜一憂より大は我々の日月星辰の運行に至るまで皆この統一によらぬものではない。】(408)と書いてる西田の真意がわかるようになる。
この場合、西田の言う「意識」を、日常用語で使う意識と同じものだと考えてしまうと、間違う。
むしろ「意識」を〈はたらき〉だと読み替えてしまったほうがよいよ。
もっと厳密な言い方をするなら、
ぼくらは一般に、ぼくらの意識、この心理的なものと、外界、たとえば、木とか家とか道路とか、そんなものとは別物だと考えるよね。実際、車や電柱に意識はないわけだし。
ところが、そのように受け止めてしまうと、西田が言う【小は我々の一喜一憂より大は我々の日月星辰の運行に至るまで】の意味が、さっぱりわからなくなる。
またしてもカルロ・ロヴェッリにふれてしまうが、あるいは色即是空の話になっちゃうが、
車や電柱ですら、ホントは実体ではなく、〈はたらき〉と共にあるものなんだよ。
そしてもちろん、ぼくらの「意識」もまた、その〈はたらき〉のいわば副産物なんだよ。
であるなら、【我々の意識は神の意識の一部】というのは、じつはとてもシンプルなことを言ってるわけで、まぁよーするに、
〈はたらき〉が我々の意識を生む、立ち上げてくれる、
その同じ〈はたらき〉が、そもそもこの世界を立ち上げてくれる、
すなわち、我々もまた、この〈はたらき〉に内在して生きている、
我々はこの〈はたらき〉の外にはいない。
〈はたらき〉の渦中にいる、と、まー、その程度のことを言ってるだけ。
簡単でしょ?
草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)
なんて言葉がある。
「仏性」は、ただ人間にのみあるのではなく、この世界に在るものすべてに「仏性」があり、
すべてのものが「成仏」する、ってなわけなんだが、
この場合、「成仏」とは、
「我」の殻を打ち破り、「我」がじつは実体ではなく、
〈はたらき〉であること知り、すなわち「我」の本性が「空」であり、自己であることを知り、
この自己は、この世界のすべてと、
この世界の〈はたらき〉と共に在る、ってことを自覚することなんだよ。
で、釈尊まで戻ってしまうなら、
それがわかってしまえば、死すら乗り超えられることができるであろう、となる。
生きとし生けるものが究極的に恐れているものが死であるとするなら、
もはや、この世界に恐れるものは何もない、よね。
【宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知するとともに、絶対無現の力に合一してこれによりて永遠の真生命を得んとするの要求である。】(379)
とあるが、ここになんら神秘主義的なところはない。
西田哲学は神秘主義だー! とか、
西田哲学は宗教だー、とか、宗教的境地を語ってるに過ぎない、
なんて言って、バッサリ切り捨てる無知な輩がおるが、
なに言ってんの? って感じ。
【宗教的要求は自己に対する要求である。】
こうなると、当たり前でしょ。
西田の言う「神」は、この世界を外側から造った超越神じゃないんだから。
単純に、〈はたらき〉なんだから。
そして、その同じ〈はたらき〉が、この自己において、それこそ〈はらいて〉いるんだから。
ちなみに、西田がどっぷりつかってた禅、臨済宗では、
「真実」を、徹底して己の内側に求めよ、と指導が入る。己事究明、とも言う。
外に求めるな! と。
己の内にあるのだ! と。
それは、そのとおりなんだ。
だって、この〈はたらき〉を外へ求める必要なんてないでしょ。
外に探す必要なんてないでしょ。
なぜなら、同じ〈はたらき〉が、己の内に宿ってんだから。
だからこそ、
【宗教的要求は自己に対する要求である。】
というのは、
「真実」を求めるなら、それを己の内に求めよ。
ってなもんよ。
【絶対無現の力に合一して】
というのも、そりゃそうでしょ、この〈はたらき〉は、この世界と共にあり、自己と共にあるんだからさ、同じなんだからさ、包含してるんだからさ、「合一して」となる。
そして、そのように、いわば悟るならさ、
【永遠の真生命を得ん】となるのは当然。
これについてはもう、言ったよね。
般若心経の、不生不滅の世界さ。
ちなみに、一般に、神様は人間の外側に、もっと言うと人間界を超越して存在するものだとされるけど、もうわかるよね?
西田の言う「神」は、いわば己の中にいる、と同時に、己の殻を打ち破り、この世界と共にある。
この「神」を、たとえば真言密教では、大日如来と言う。