『善の研究』を読む⑤
文字数 932文字
つーわけで、西田は次のとおり語る。
【かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。すなわち、我々は意識の根底において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験するにあるのである。】(P398)
もう解説いらないよね?
ここまでの話がわかってりゃ、すらすらいけるよー。
ただ一点、注意が必要なのは、
ぼくらはこの〈はたらき〉の渦中にあり、
〈はたらき〉と共に立ち上がってくるんだからさ、
まるで自分の目で自分の目を見ることができないようにさ、
この〈はたらき〉そのものを知的対象とし、理解することはできない。
次の文章にでてくる「統一」なる概念は、とりあえず〈はたらき〉だと思って、変換して読んでみてほしいんだけど、
【意識あってこの統一がおこなわれるのではなく、この統一あってかくの如き意識を生ずるのである。この統一そのものは知識の対象となることはできぬ。我々はこのものとなって働くことはできるが、これを知ることはできぬ。】(P410)
と言ってるし。
たとえば、こんな記述がある。スルーしてしまいがちだけどね。
【神の永久とか偏在とか全知全能とかいうようのことも、皆この意識統一の性質より解釈せねばならぬ。時間、空間は意識統一によって成立するが故に、神は時間、空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所なしである。】(P430)
とりあえず今のところはこの「意識統一」を、単純に〈はたらき〉と読み替えておいてくださいな。
ぼくはね、やはりアインシュタインの相対性理論を想起してしまうよ、つい。
西田は、あらかじめ絶対的な時間や空間があるのではない、とみている。
そうではなく、時間も空間も〈はたらき〉と共にあり、〈はたらき〉によって生じるものだ、とみているよね。
それもそのはずで、そもそも実体をみとめてないんだからさ、
時間も空間も、実体的なものだとは考えていないんだよ。