『善の研究』を読む⑦
文字数 4,457文字
そもそも、すでに述べたように、より大きな〈はたらき〉の一部だよね。
てことはさ、
「自己」=〈はたらき〉が向かうべき方向、というのもまた、
より大きな〈はたらき〉の中で考えなくちゃいけない、ってことになるんだ。
〈はたらき〉=「自己」を感じるとともに、さらにその「底」をも突き破り、
なんていうかな、
もはや「自己」の殻をも打ち破ったところに、ソレを求めなきゃならんわけだ。
大学受験で、少しでも偏差値の高い大学へ進学したいなー、
なんて思っちゃうのも、そういった社会の価値観が、傾向が、世間の目が、
ぼくらの内面へダウンロードされちゃってるからでしょう。
でね、この社会というのもまた、全体としての〈はたらき〉の産物には違いない。
それが、一つの現れ方として、社会となり、立ち上がってくる。
でもって、ぼくらは社会の中に生きているから、
まったくカオスな、デタラメな価値観を抱き、無茶苦茶な方向を向いて生きているのではなく、
ある幅の中で、考え方が収斂していき、行動パターンも狭まってくる。
いわゆる社会というものが立ち上がり、
その中に、ぼくらもまた存在する以上、
社会というものが、デタラメな方向を向いていないのと同様、
ぼくらもまた、ある方向を志向していくことになる、というわけ。
という問いが発生するわけだが、
まず、西田の結論だけ先に引用しておく。
【真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るということに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。しかして、真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。しかして、この力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後蘇るのである。】(P374-375)
いま、ここにいる、このぼく、私、その本性は「空」だったよね。
ホントの実体は、西田流の概念で言うなら、実在するものは、
このぼくを、かくあるように立ち上げている〈はたらき〉でしかなく、
これを、「自己」という。
ところが、この〈はたらき〉というのは、
そもそも、この世界をかくように立ち上げている〈はたらき〉と、
本質的には同じものだ。
これを、インド哲学では、アートマン=ブラフマン、
真言密教だと、梵我一如、なんて言う。
西田の言葉で表現するなら、さきの引用の繰り返しになるが、
【真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るということに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。】ということになる。
そのようなことがわかってしまったときには、
〈はたらき〉というものが、わかってしまったときには、
簡単に言うと、このぼく、なんて存在が「空」でしかないことが、わかってしまったときには、
たとえば、自分さえよければいい、とか、
カネが欲しいだの、なんだの、そういった私利私欲から免れることができるようになる、ということ。
だって、自分、なんてものが無いんだからさ。
つまり、自我への固執から解放される、ということ。
世間一般では、これを解脱と呼ぶ。
つまり、簡単に言うと、解脱して、この偽りの、「空」でしかない私を殺し、
私利私欲を滅し尽くして後に、しかる後に、
なんて言うかな、言ってしまえば、まぁ、ある意味ブッダとして、蘇る、ってなことだよね。
そして、そのようなレベルにまで辿り着いたときにこそ、
その人の行為は、いわば、自ずから、「善」となる。
「善」の方向へと進んでいくことになるだろう、ということ。
なんて言うと、とても困難なことを言っちゃってるように聞こえるかもしれないけれど、
西田は【個人性】(P356)という概念を使っているが、
その人がその人なりに、その人それぞれにおいて、
最大限に「善」の道を展開していくことを良し、としている。
つまり、肝心なことは、それぞれの人が、
何度も繰り返しちゃうけれど、それぞれの人の、それぞれのレベルにおいて、
【我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後蘇る】
ということ、が、大事。
そこに至って、それぞれの人が、それぞれの「善」の道を進むことになる。
その道は、その種類は、その具体化していく方向は、それこそ人の数だけあるだろう。
家族、であり、社会、であり、国家だ。
【家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級といわねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は、単に子孫を遺すというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的をもっている。】(P362)
たとえば、子どものためなら、死んでもいい、なんて想う、親の愛があるでしょう。
家族のために、という想いは、すでに「自分という狭い殻を打ち破っている」。
つまり、家族というのは、この私が、ぼくが、偽我を打ち破り、私利を捨て、成長していくための、一つの機縁となる。
同じことは、社会、についても言える。
偽我を斬り、私利から離れれば離れるほど、
社会のために、とか、社会をよりよくするために、とかいうマインドが育つだろう。
【国家の本体は我々の精神の根底である共同意識の発現である。我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができるのである。】(P364)なんて西田が書いているのを、上辺だけなぞって読んでしまうと、一瞬、西田はナショナリストか? 国家主義者か? なんて思ってしまうけれども、
これは、完全に誤解、誤読だ。
自分なんてどーでもいい、家族が幸せなら、という想いの、次元がより大きくなると、
社会のために、社会に尽くしたい、となり、
もっと次元が大きくなると、この国に暮らしているみんなが、同朋が、幸せになってほしい、
自分なんて、どーでもいい、とかいう想いに至る。
この、私利私欲を最大限に滅し尽くしたとき、
【我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができる】ということになるわけ。
で、もっと言うと、西田はさらに突き進み、
【我々の人格的発現はここに止まることはできない。なお一層大なるものを要求する。それはすなわち人類を打して一団とした人類的社会の団結である。】(P365)
ということになる。
つまり、一人一人が、「自己」=〈はたらき〉に気づき、
その渦中で、偽我を殺し、私利私欲を捨て、己の「空」性を悟り、
「善」の道を進んでいくならば、
それは、同時に、社会を「善」へと動かしていくものであり、
家族を、国家を、「善」へと動かしていくものであり、
全体として、人類社会を「善」へと動かしていくことになり得る。
その〈はたらき〉に身を重ねる、ということであり、
【真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るということに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きている。しかして、真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。しかして、この力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後蘇るのである。】(P374-375)
という結論に、再び戻ることになる。
みんな私利私欲の塊だし、自我にとらわれまくってるし、
かく言うぼく自身もそうだし、
だから、社会も資本主義がどうの、という話じゃないけれど、
社会は私利私欲で動いちゃってるところがあるし、
国家、っつっても、戦争とか、縄張り争いとか、貿易においても、エゴとエゴのぶつかり合いだったりするし、
人類社会、っつっても、いつまで経っても、人種差別すらなくならないよね~。
本当の意味での実在は、「自己」=〈はたらき〉のみ。
ぼく、私は、その「自己」=〈はたらき〉が展開したものにすぎない。
また、この「自己」=〈はたらき〉とは、
そもそも、この世界をかくあるように立ち上げている〈はたらき〉と異なるものではない。
それがわかってしまえば、
自然の反対側に、自我があるのではなく、
大いなる〈はたらき〉(=ブラフマン)と共に、その渦中において、
小さな〈はたらき〉(=アートマン)である私があるのであり、
私と世界とは一体である。
ここに至って、自我に固執することから、解脱することができるようになる。
そして、当たり前なのだろうが、このような人、
いわば「自己」を、「人格」を、最大限に発展させた人の「行為」は、
あるいは、そのような人の「行為」こそ、「善」と言えるようなものになる。
だからこそ、西田が言うように、真の自己を知ることこそ、善なのである。