『善の研究』を読む⑥
文字数 3,173文字
もし、この『純粋経験と実在』ってタイトルだったら、
もしかしたら、ここまで広く読まれるようにはなってなかったかもしれない、と思う。
出版社のマーケティング・センスに軍配をあげておきたいな、個人的には。
序文において、
【この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占めおるにもかかわらず、人生の問題が中心であり、終結と考えた故である。】(P15-16)
と書いている。
いったい本書のどこが「人生の問題」なのか、よくわからーん!
ってな感想を抱く人も多かろう、と思う。
けれどキチンと読解するなら、たしかに、徹頭徹尾、本書は「人生の問題」を扱ってるんだよね。
じつは、これまでのお話をキチンと理解できていれば、
いとも簡単、あら不思議、第三篇「善」はラクショーで読破できる思うので、
要点だけ、お話していきたいと思う。
この世界を立ち上げている〈はたらき〉は、
同時に、その一部において、いま、ここ、にいる、
この私をも立ち上げている〈はたらき〉なんだが、
その〈はたらき〉を、この私をかくあるように立ち上げている〈はたらき〉を、
西田は「自己」と称した。
たとえば、〇〇しよー、なんて決意、決断することだよね。
そうではなく、この場合の「意志」とは、もちろん、そのような狭義の意志も含んではいるものの、
より幅広な感じでね、
簡単に言うと、〈はたらき〉=「自己」を展開させていく、
具体的に着地させていく、なんていうかな、活動、というか運動というか、
そういったものを指している。
思いっきり、超訳してしまうならば、
〈はたらき〉=「自己」が、車だとするならさ、
ぶおん、ぶおん、とエンジンが回転してるわけで、
動いてるんだけど、それを具体的にね、ハンドリングして、
ある方向へ動かしていく、ハンドルを切っていく、
それが「意志」
「思惟」「想像」「意志」という3つに区分して論じていくことが多いのだが、
ここでいう「意志」は、分派されてからの「意志」であって、
いわば狭義の「意志」だよね。
だからそれとはべつに、さっき言った意味での「意志」という用いられ方もしているよ、
という点には、注意が必要だ。
区別して、〈意志〉と表記することにしよう。
そうじゃないよ、
ここまでの流れがわかってないと、
どのような「行為」が「善」だと言えるのか、
その答えが出てこなくなるんだよ。
簡単に言うとね、
そもそもの、その根源的な〈はたらき〉=「自己」が向いている方向と、
その「行為」が向いている方向とが、合致したときにこそ、
その「行為」は「善」だと言うことができる、ということになる。
【善は何であるかの説明は意志そのものの性質に求めねばならぬことは明らかである。意志は意識の根本的統一作用であって、ただちにまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は他のための活動ではなく、己自らのための活動である。】【善とは我々の内面的要求すなわち理想の実現、換言すれば、意志の発展完成であるということになる。】(P325)
【実在の根本たる統一力】すなわち〈はたらき〉(=「自己」)が具体化したものであり、
【己自らのための活動】すなわち、
〈はたらき〉(=「自己」)を、具体化させていくためのものである。
そして「善」とは、簡単に言うと、それがうまい具合にできている場合のことを言う。
【意志は意識の最深なる統一作用であってすなわち自己そのものの活動であるから、意志の原因となる本来の要求あるいは、理想は要するに自己そのものの性質より起こるのである、(中略)かく考えてみれば、意志の発展完成はただちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成であるということができる。】(P328)
と言う。
デタラメな方向を向いていない。
ある方向を潜在的に志向している。
なぜそうなるかについては、この後で、じっくり説明する。
とりあえず、飛ばす。
その方向性を、具体的なかたちで着地させていくのが〈意志〉であり、
「行為」に結実していくわけだが、
その結実の仕方が、〈意志〉の具体的な顕現が、
そもそもアサッテの方向へ行っちゃってる場合はNGであり、
向かうべきところへ向かっている場合が、「善」だ、ということになる。
以上。
サルトル(1905-1980)なんかは、
実存は本質に先立つ!
なんて言って、
人間はどの方向へも進み得る、がゆえに、
どの方向へ進むかを、自ら(何にも依存することなく)決断せねばならない、と考えた。
また、どの方向へも進み得る、という点では自由であるが、ある面では、
自らどの道へ進むかを決断せねばならぬ、という重荷を背負っているということもであり、
人間は自由の刑に処せられている、とも言った。