『いい子のあくび』高瀬隼子

文字数 2,619文字

 先日、図書館で借りた『文学2022』に収録されていた高瀬隼子さんの短編が良かったので、買ってからずっと積ん読になっていた『いい子のあくび』を読み始める。




 冒頭で主人公は、スマホながら運転の自転車と出くわす。相手は男子中学生。
 「ぶつかったる。」と彼女は思う。絶対に許さないし、避けてなんかあげない、と強く思い、スマホに集中して前方にいる彼女にまったく気づかない少年と接触する。正確には、直前で気づいてとっさにハンドルを横に切った少年の自転車のかごが、彼女の腕を擦って傷をつけた。そこに彼女の後方からやって来た車が急ブレーキを踏む。車はギリギリで自転車とぶつかる。少年は自転車ごと倒れる。
 「あ、やばい。」と一瞬、焦りを感じたものの、すぐに彼女は「自分は悪くない」と思い直す。

 少年も肘を怪我をして血を流している。車から降りてきた運転手は「四十歳くらいのおばさん」で、おざなりに「大丈夫?」と少年を気遣う素振りを見せながらも「車はほとんど止まっていたし、飛び出してきたのはそっちでしょう」といい、自分の車についた小さな傷のほうを気にかける。
 少年はじっと静かに黙っている。子どもの頃は、黙っていても周りのおとなたちがなんとかしてくれることが多いけれど「黙ってても許してあげないよ。」と彼女は思う。助け舟など出さない。
 そこで彼女は自身の腕の痛みが気になって袖をめくる。皮が剥けて血が出ていた。車の運転手がそれに気づいて「怪我したの?」と尋ねる。彼女は説明する。
「スマホを見ながら運転していたこの子にぶつかられた」のだと。
 その話の流れで「警察を呼ぶ?」と車の運転手が尋ねると、少年は首を横に振って、倒れたときの衝撃で画面にひびが入ったスマホを拾い、自転車を起こして立ち去ろうとする。
 主人公はそれを呼び止めると「謝らないの?」と追い討ちをかける。車の運転手は「すうっと息を吸って」彼女を見つめた……

 なにこの緊迫感。
 スマホながら運転の自転車を避けずにぶつかるという選択肢はおそらくあまりメジャーではないだろうと思いつつも、日常にあり得そうなリアルな状況にページをめくる手が止まらず、続きが気になって一気に読み終えることになった。

 スマホながら運転や歩きスマホが許せない、という主人公の気持ちはよくわかる。自分は悪くないのに、なんでこちらがわざわざ避けてやらないといけないのかと理不尽な思いを抱くのも、すごくわかる。
 わたし自身も、徒歩や自転車で移動している最中、向かいからスマホながら運転の自転車や歩きスマホの人間がやって来ると心底うんざりする。とくに自転車の場合、逆走しているうえに、さらにながらスマホという、もうどうしようもない輩なので、口で注意したところで通じないだろうし、スマホを触っていないと死ぬの? むしろスマホを触っているせいで死ぬかもよ? と思いながら、関わりたくないので自分のほうが避ける。どうせそのうち痛い目を見るだろうと思いながら。

 けれど、この主人公の場合はそうはならない。立ち向かう。それは正義感というより割に合わないという、いわば損得勘定のようなもので、そんな彼女は表向きは「いい子」で「いい人」として周囲から認識され評価されている。

 彼女には大地という名前の恋人がいて、
「駅や街中で人にぶつかられることがある」
 と話した際に、彼は信じられないという顔をして、
「おれ、ぶつかられたことないよ」
 と「実際に疑っているような声色で」いった。
 大地は百八十センチを超える長身で学生時代はバレーボールをしていたこともあってか、ガタイが良い。そんな体躯をした男にぶつかっていく人間などいない、と彼女は考えて、それならば自分は「こいつならいいや」と選別されてぶつかられていたんだな、と今さらのように気づいたのだった。
 それで、自分も避けるのを止めることにした。

のだ。

 彼女のいうことの理屈はわかるし共感する部分もある。それなのに、読んでいてなんだか

するのはなぜなんだろう、と思う。後半に進むにつれて、その

は大きくなっていく。

 たとえば、ある事柄について「すてきだな」と思う一方で「バカバカしい」とも思う、そんな矛盾した感情を抱くことは実際にある。心が二つある、というか、やけに冷静な自分がいて淡々とジャッジを下してくる、というような。
 そう、この主人公は妙に冷静に自分を客観視している。自分のことを「いい子だな」といってくる恋人に対して、付き合っているのに本性を見抜けないなんて、と冷めた目で見ていたりする。

 彼女は、冒頭でスマホながら運転をしていた男子中学生の「ヨシオカくん」の名前と学校名をTwitterで検索して、ヒットした本人と思しきアカウントをフォローして彼のその後の言動を覗き見していた。監視ともいう。ヨシオカくんは、自分がスマホながら運転をしていたことは隠して「車にぶつかられた」と発信していた。フォロワーである同級生たちがその話題に食いつくさまを、彼女は遠巻きに観察している。
 ヨシオカくん、見られているよー!と思わずいいたくなる。ネット社会では普通に起こり得る状況である。怖い。

 どうやら、子どもの頃に目にしてきたある光景が、それらの体験が、彼女の心に影を落としているようで。



 そしてこの物語は、思いがけない展開を迎える。


 表題作のほかに『お供え』『末永い幸せ』の二つの短編が収められて、こちらもそれぞれ印象深い物語だった。
 以前、『キリモドキ』のほうで高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』の感想を書いたけれど、今作もそれに匹敵するくらいの

を堪能(?)できたと思う。

『おいしいごはんが食べられますように』の感想↓
https://novel.daysneo.com/sp/works/episode/067ade154f3bbe044e740f4534c25728.html

 日常で感じるモヤモヤを言語化するのが飛び抜けてうまい作家さんだなと、あらためて感嘆させられた次第です。これはぜひ読んでみてほしい一冊。
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