第3話

文字数 2,205文字

 昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
 読書スペースに放置された本を棚に戻し、心咲は礼美と一緒に図書室を出た。
 礼美が戸締りをする。基本的に、二年生か三年生が鍵の管理を務めるので、一年生の心咲に鍵が回ってくることはないはずだった。
 廊下で礼美と別れ、心咲は階段を下った。旧校舎の一階ロビーに着いたところで、心吾を見つけた。
 ……おっ、シンちゃんだ! でも、なんか様子がおかしい……。
 心咲は心吾から三メートルほど離れた位置で立ち止まった。
 心吾を挟んで、二人の男子生徒が睨み合っている。一人は、心咲と同じくらいの身長の坊主頭の男子で、もう一人は、心咲より頭一つ分背の高い、大柄の男子だった。
「てめえ、マジで許さねえ!」
「んだと、コラァ!」
 坊主頭と大柄の男子が交互に怒鳴った。間にいる心吾は両手で二人の胸を押さえ、「やめろ落ち着け」と言う。
 心吾は心咲の存在に気がついていない。集まってきた野次馬も、たぶん、彼の目にも耳にも入っていない。
「どけ心吾!」
「落ち着けよゴッちゃん!」
「やんならさっさとこいよ!」
「ネコちゃんも! 喧嘩すんなって!」
 ネコちゃんとゴッちゃん。
 もしかして、晃が朝に言っていたネコヅカとゴトウとは、この二人だろうか。
「痛って!」
 突然、バチッと肉を叩いたような音が一階ロビーに響いた。ゴッちゃんと呼ばれていた大柄の男子が腕を伸ばして、ネコちゃんと呼ばれていた坊主頭の男子の頬を殴ったのだ。
「おい!」
 心吾がゴッちゃんを両手で押した。身長百七十六センチ、体重六十五キロの心吾が両手で押しても、ゴッちゃんはわずかにのけぞっただけだった。
「ざけんな、てめえ!」
 ネコちゃんが激昂し、心吾を押しのけてゴッちゃんに飛びかかった。ゴッちゃんのほうを向いていた心吾は、ネコちゃんの両手押しを食らって大きくよろめいた。
 それでもすぐ、心吾は体勢を立て直し、ボクシングの試合に割り込むレフェリーのように両者の間に身体をねじ込ませた。
「どけ心吾!」
 ゴッちゃんが猛獣のように吠え、心吾の肩に右肘を叩きつけた。
 心吾は怯まず、相撲取りみたくゴッちゃんを両手で押した。空手で鍛えられた心吾の打たれ強さと、痛みに対する我慢強さは半端なものではなかった。
 しかし、顔に当たったら、さすがの心吾も倒れてしまうかもしれない。
 心吾が通っている極真空手の道場は、顔面に直接拳を当てることを禁止にしていた。なので、心吾は普段打撃を受けていない顔だけが打たれ弱かった。
「うッ!」
 心吾が初めて痛みを声にした。ネコちゃんが振り回した拳が、こめかみに当たってしまったのだ。
 ふらふらと揺れる心吾を見て、心咲の身体が反射的に動いた。
「シンちゃん!」
「み、心咲!? おい、行くなバカッ!」
 心吾の制止を無視して、心咲は、互いに胸倉をつかんで引っ張り合うネコちゃんとゴッちゃんの間に飛び込んだ。それで両者を突き飛ばせたならよかったのだが、腕立て伏せ十回で筋肉痛になる心咲の貧弱な腕ではどうしようもできず、激しく押し合う両者の身体にはじき飛ばされ、背中からごろんと転倒した。
「なっ……! てめえら、心咲に何しやがんだッ!」
 心吾は大きく目を見開き、ゴッちゃんの筋肉でふくれた左足の太ももに右足の蹴りを放った。パァンと鞭を打ったような音がしたすぐ後に、ゴッちゃんはガクッと床に左膝をついた。
「えっ!?」
 何事かと驚き、動きを止めたネコちゃんは、間髪入れずに放った心吾の正拳突きで腹部を打たれ、苦しそうに呻きながら土下座をするような体勢になった。
 左足の太ももを両手で押さえて呻るゴッちゃんと、土下座したまま動かなくなったネコちゃんを見下ろし、心吾は肩で大きく息をした。
 野次馬たちが「おー」と、驚いたような、感心したような声を上げた。
 心咲は上体を起こし、心吾を見上げた。心吾は「やべえ、やっちまった」と言いたげな苦い表情を浮かべていた。
「おい! どうしたんだ!」
 生徒たちをかき分けて、二人の男性教諭が現れた。普通科一年B組担任の遠野教諭と、普通科三年B組担任で柔道部の顧問も務める梅澤(うめざわ)剛志(こうじ)教諭。堅物で、冗談が通じない二人だった。
 遠野教諭と梅澤教諭の目には、床に膝をつくネコちゃんとゴッちゃんと、それを見下ろす心吾と、床に両手をついて心吾を見上げる心咲が、どのように映っているだろうか。
 事情を知らなければ、心吾が男子生徒三人を喧嘩で叩きのめした、と判断してもおかしくない状況だった。
「みんなは教室に行け」
 梅澤教諭が叫ぶ。「みんな」とは、ネコちゃんとゴッちゃん、心吾と心咲以外の生徒たちのことだろう。
 心咲は立ってズボンについた埃を手ではらった。
「畠山」
 遠野教諭が、心咲の背中にそっと手を当てて言う。
「教室に戻りなさい」
「えっ!?」
 心咲も無関係とは言えないが、遠野教諭の目は機械電気科の生徒だけに向けられていた。
「あ、あの……。おれも……」

。もう授業が始まる。教室に戻りなさい」
 心咲は一方的に輪の外に出された。
 遠野教諭と梅澤教諭は、ともに統合する前から浜高にいた。二人にとって大事なのは浜高の正統な生徒で、新参者の機械電気科の生徒は守るべき対象ではないのだろうか。
 あからさまな生徒差別を見せつけられた心咲は、こんなことをする人だとは思わなかった、と遠野教諭を批判的な目で睨みつけ、渋々その場から立ち去った。
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