第12話

文字数 1,571文字

 日曜日。八時半。
 心咲は心優に化粧をしてもらい、まだ眠っている両親に見つからないよう、こっそり家を出た。
 十分前に到着するよう、待ち合わせ場所である〈長老〉のバス停に向かったが、心吾はすでにそこにいた。時刻表の隣で、案山子みたいに突っ立っている。心咲はカツラをずらして長い前髪で両目を隠してから、心吾に近づいた。
「あっ! た、たた、田川さんッ!」
 心吾は姿勢を正して、目を大きくした。その目に映っているのは心咲ではなく、黒髪ロングの美少女、田川心だ。心吾の反応が、それを証明している。
 こんにちは、と口に出せないので、心咲はただ、いつも通りに微笑んだ。たったそれだけのことで、心吾は恥ずかしそうにニヤニヤした。
 心吾が田川心に見せる笑顔は、心咲に見せた笑顔でもある。だが、心咲は田川心と嬉しさを共有することができなかった。自分に対して向けられた笑顔なのに、大事なものを横取りされたような悔しさが湧いた。
 とはいえ、心吾は男だ。そして、目の前にいるのは心優が生み出した美少女だ。心吾が一目惚れするほどのストライク少女の笑顔を見て、喜ばないほうがおかしい。
 わかっているけれども、男として生まれ、同性を好きになった心咲にとって、この現実は辛かった。
 ……何だよ。目の前にいるのは女装したおれだぞ。友達の女装も見抜けないほど、シンちゃんは鈍感な奴だったのかよ。
 ネチネチと心咲の中で嫉妬が怒りに変わり始めた。
 髪形と服装しか違わないのに、田川心は、いともたやすく心吾の笑顔を引き出した。それが腹立たしかった。
 鈍感な心吾も心吾だが、やはり、一番悪いのは泥棒猫の田川心だ。こいつさえいなければ、心咲は心吾を……心吾を?
 いや、何を考えている。心吾を、どうするというのだ。
 心咲の怒りが、急速に冷めていった。
 根本的に、心咲は誤解している。心吾が好きになるのは異性で、同性ではない。心吾と心咲とでは対象が違う。
 それなのに、心咲は心吾に共感を求めていた。右利きの人に左利きを強要するような、いや、それよりも難易度が高い、それこそ性別を無理矢理転換させるくらいの、今後の人生を一変させるほどの変化を求めていた。
 心吾の価値観や恋愛思想などを壊して、自分と同じ形に作り変えようとするのは洗脳だ。心咲は自分が、人を洗脳する異星のエイリアンに思えた。
「あ、あのー……」
 心吾が心咲の顔の前で手を振った。心咲は、ハッとなって顔を上げ、すぐ下に戻した。
「だ、大丈夫? 怖い顔で固まってたけど……」
 心咲は作り笑いで誤魔化した。心吾は簡単に騙された。
「げ、元気ならいいけど……。ていうか、どっか行こうぜ! えーっと、好きな場所とか、好きな趣味とかある?」
 心吾は田川心に好きになってもらおうと必死だった。セリフは下手でも、田川心のために何かしてあげよう、という優しさが伝わってきた。
 心咲は肩に提げている、心優から借りたポシェットから小説を一冊取り出した。それを心吾に見せて、行先を考えさせた。
「本? ああ、図書館か! いいよ、行こう!」
 山鳩がボッポポーと鳴いた。〈長老〉の葉の髪が風で揺れた。心咲は何のメッセージも受け取れなかった。
 田川心だからだろう。心咲は今、田川心なのだ。好きな人と通学できず、一人ぼっちでここに立ったことのない田川心に、幻聴ともいえるメッセージなんて受け取れるわけがない。
 心咲は、心吾と並んでバス停横に立った。図書館に行くためには、バスに乗って移動する必要がある。心吾だけならロードバイクで三十分ほどで行けるだろうが、体力の無い心咲にそれは厳しいし、田川心にもできないことだ。
 なので、図書館にバスで向かう、というプランは、実は前日の内に心咲が決めていたことだった。〈長老〉を待ち合わせ場所にしたのは、目と鼻の先にバス停があるからだ。
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