第1話

文字数 2,018文字

 平成十八年、九月。
 夏休みが終わって、四日目の朝。
 畠山(はたけやま)心咲(みさき)はバスの時刻表の傍に立ち、肩に提げたショルダーバッグから小説を一冊取り出し、栞を挿んでいるページを開いた。
 バスの到着時間は、正確ではないが、だいたい合っていた。短編だったら一話(ひとばなし)読み終えられるくらいの暇があった。
 といっても、バス停には椅子も屋根も無く、時刻表が案山子(かかし)みたいに突っ立っているだけなので、雨や強風などの悪天候の日は本を読む時間が朝食の時間になっている。
 ふわりと吹いた風で雲が流れて、太陽が溜め込んだ鬱憤を発散させるように強く光った。開いていたページが小麦色に染まり、心咲は眉間に皺を寄せ、数歩下がった。
 心咲の後ろには、地元民に〈長老〉と呼ばれ御神木のように大事にされている、樹齢千年の巨大な藪椿(やぶつばき)があった。大人の腕ほどもある太い枝が、身長百七十センチの心咲の頭部から二メートルほど上で毛細血管の如く伸び広がっており、無数に生えた光沢のある楕円形の滑らかな葉が太陽光を遮る傘代わりになってくれた。
 風が吹くたびに〈長老〉の葉がぶつかりあって、しわがれた音がきこえた。
 姿は見えないが、心咲の近くで山鳩(やまばと)がボッポポーと鳴いた。
 四日前までは、蝉の合唱がやかましかったが、段々と静かになっていった。
 もう、ここには〈長老〉と山鳩しかいないみたいだった。仲間が減って寂しいのか、心咲を新たな仲間にしようと無理に話しかけているように、しつこく音を出している。
 ランドセルを背負った男の子と女の子がバス停の前を通った。心咲と同じ部落で暮らす、ツトムとユカリだった。「ミサ兄、おはよう!」、「おはようございます!」と心咲に挨拶する。二人とも半袖のシャツを着ていた。寒そうには見えない。
 心咲が着ている制服は、冬用のブレザーと長ズボンだった。衣替えは今日からで、学校に行けば、クラスの男子はみんな心咲と同じ服装のはずだった。
 ツトムとユカリが通う小学校では、厚着している子供のほうが少ないのではないかと思う。心咲が二人と同じ小学五年生だったときは、十月に入るまで、クラスメイトのほとんどが半袖だったのをおぼえている。
「おはよう。ツトム君、ユカリちゃん」
 ツトムとユカリとは学校がある日だけ、毎日ここで挨拶を交わしている。心咲がバスを待っている時間が、学校へ向かう二人の時間とぶつかるのだ。
「おっすー!」
 一人の男が風のようにバス停を横切った。田舎には似つかわしくない、チタンフレームのロードバイクに跨り、前傾姿勢でペダルをこぐその男は、心咲と同い年の五十嵐(いがらし)心吾(しんご)だった。
「あっ! シンちゃん、おはよう!」
 心咲は心吾の耳にとどくよう、大声で返し、手を振った。心吾は手を振り返さず、真っ直ぐ前だけを見つめて車道脇を疾走した。姿が豆粒ほどの大きさになってもまだ、心咲は心吾の背中を目で追い続けた。
 心咲と心吾は、小学、中学、そして高校も同じだった。互いに学科は違うけれども、目的地は同じなので、一緒に通学することはできた。
 小学、中学のときは、一緒に徒歩で通っていた。別々になったのは、高校からだった。
 親から入学祝で買ってもらったロードバイクを運転したかったのが、心吾が一人で通学を始めた理由だ、と心咲は勝手に思っている。
「じゃあな。ミサ兄」
「ミサ兄も学校がんばってね」
 赤色と黒色のランドセルが並んで揺れた。
 数年たったら、ツトムとユカリも、今みたいに並んでランドセルを揺らせる日がこなくなるのだろうか。
 ……シンちゃんと、おれみたいに。
 心咲は最近、心吾とあまり会話していない。
 別に、喧嘩したわけではない。初めて会ったときから変わらず、心咲と心吾の友達関係は切れずに続いている。
 家が隣同士だし、通っている高校も同じ。会おうと思えばいつでも会えるのに、小学、中学のときと比べて、心吾と一緒に過ごす時間が減った。
 高校で新しい友達ができても、一緒に部活を頑張る仲間ができても、ふとした瞬間に、心咲は心吾が傍にいない寂しさをおぼえた。
 ……シンちゃん。やっぱり、おれは……。
 これまでは、当たり前のように傍にいたから気づかなかった。
 高校生になってやっと、心咲は自分の本心に気づいたのだ。
 ……おれは、シンちゃんのことが好きだ。
 でも、心吾は心咲のことをどう想っているのだろうか。
 仮に、心咲が心吾に告白したらどうなるのか。
 心吾と両想いの関係になる。……それは、妄想だ。
 恐らく、気まずくなって、二度と顔を合わせられなくなるだろう。
 結局、現状維持が一番、互いにとってよいことなのでは、と思える。
 ……おれ、どうしたらいいんだろう……。
 心咲は栞を挿まず小説を閉じた。男性同士が恋愛する内容の小説は、現実の変化に役立つ参考書にならなかったので、読むのをやめた。
 バスがきたので、心咲は小説をショルダーバッグにしまった。
 じゃあな、と突っぱねるように、山鳩がボッポポーと鳴いた。
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