逢 三

文字数 1,577文字

 その日一日、報告書に目を通してみたり、寮内をいろいろ見て回ったりして過ごした。日も落ちて暗くなってきた頃、青年は自室の前の縁側に腰を下ろす。縁側から見える桜をぼうっと眺めた。風に煽られ花びらがさらさらと散る。月明りに照らされ幻想的な光景に、青年は心が休まるのを感じる。

 朝食での出来事を思い返す。広目(こうもく)寮の隠儺師(おんなし)は皆個性が強いが、まだ未熟な青年に対し、分け隔てなく接してくれた。
(花絨毯の王子様には相手にされなかったけど)
 それでも青年は王子が取った態度については理解できる。
(こんな落ちこぼれな存在だし。苛つかせてしまうのも分かるな) 
 青年は自らを自虐すると、今朝の王子の態度を思い出し、ふっと笑った。しかし少しへこんでいたのも事実だ。

 あれこれ考えながら桜の木を眺めていると、庭に降りてくる人影に気付く。なぜか大きなゴミ袋を手にした王子だった。青年は王子の行動を見つめた。王子は桜の根元にある、山のように積まれた紙の前に座り込む。花絨毯がなくなった後、代わりに置かれていた紙の山だ。青年は何をするのかと注視する。

 王子がゴミ袋の口を開ける。ふわっと紙の束が浮いたかと思うと、細切れの紙が一気に舞い上がり、ごみ袋へと吸い込まれるように入っていく。
「わぁ……」
 少年は感嘆の声を漏らす。その声に気付いたように王子がこちらを見た。
咒符(じゅふ)だ」
 そう言うと、王子は紙束の中から蝶を形どったものを拾い上げ、青年に向けて差し出した。王子の手に乗った蝶型の紙は、命を得たかのようにひらひらと羽ばたきだし、青年に向かって飛んできた。
 青年が手のひらを出すと、紙の蝶は青年の指先にとまる寸前に本物の蝶へ変化した。青年の眼がキラキラと光る。

「俺の咒法は咒符だ。紙であればそうやって姿を変えることも出来るし、札を使えば怨霊の封印や除霊もできる。まぁレベルには限度があるけどな」
「朝のたくさんの花も全部紙だったんだ」
「そう。晶馬が片付けろってうるさいから、掃除しに来た」
 ゴミ袋いっぱいに詰まった大量の紙を抱えて縁側に上がる。青年が指先で蝶と遊んでいると、王子が青年の隣にしゃがみ込み肩を並べる。

「桜っていつから桜って名前が付いてるか知ってるか?」
 不意に王子が話しかける。
 いや、と答えて青年は王子の方を見た。
「俺も知らない。だけど、生まれた時から桜は桜だった。桜はな、桜って名前があるから、桜たらしめる」
 青年は最初、王子の言葉の真意は分からなかったが、その意味はなんとなく分かった。

「もし桜の名前が桜じゃなかったら、それは桜と言えるか?」
 青年は考え込む。目の前の木に桜という名前が付いていなければ、それは未だ

でしかない、そう青年は思った。青年の考えてることが王子にも伝わったらしい。
「お前はまだ自分の名前を名乗るか決めかねてんだろ? まだ名前がないなら、今から何にでもなれるだろうが。自由に手前(てめえ)を決めることができるってことだろ」
 強い風が吹き、桜がざわっと音を立てる。
 そんな考えを今までしたことがなかった。名乗れないことが自分を縛っていると思っていた。名前を名乗れない事は自分のネガティブ要素でしかなかった。

 今の自分なら、なんでも決められる、変えられる、自由に。

 青年は熱くなった目で王子を見た。王子は満足したようにふんっと鼻をならし、立ち上がるとその場を去ろうとした。
「あの! 名前! 名前はなんて――っ」
 立ち去る背中に向けて叫ぶと、王子がおもむろに振り向く。
清與(きよ)だ。太上清與(たがみきよ)
 はっきりとした一片の迷いもない声。その声が青年の心に突き刺さる。
「清與! よろしく!」
 青年の顔がぱっと明るくなる。その顔つきを見た清與は、満足げに口元で笑うと立ち去って行った。
 桜はまたさわさわと音を立て、桜吹雪を散らした。ようやく青年を歓迎してくれているかのようだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み