文字数 1,110文字

人参の千切り。
斜めに切り込みを入れる。
できるだけ細く。細長く。
たった、二本なのに。 
果てしなく感じる。
私が不器用なんだろう。
箱に入ったたくさんの人参。
いらないのに。受け取るしかなかった箱。
私の手に余る。
人参は何に使えばいいのか分からない。
どの料理にも、たくさんの人参はいらない。

涙が流れていた。
頬を流れる雫。
訳もなく。ただ、悲しくなった。


私の家のキッチンに立つ、歩夢(あゆむ)さんの後ろ姿。
私はあの日々のことを思い出していた。
「ケイくんそれ、お皿入れていってよ。それとそこの椎茸とって」
今夜は二人が来ていて、料理をしてくれるいる。
あの頃。
ケイさんがオープンした、イタリア料理店で働くようになったあの頃。私は店長として。歩夢さんはオープニングスタッフの手伝いとして、一緒に過ごした。オープン前からオープン直後の、忙しくていろんな事があったあの日々。大変だったけれど、楽しくて、まだ始まったばかりだと疑わなかった。
数ヶ月後、私のお腹には文音がいた。
いつの間にか宿った。命。
薬を飲み、注射を打ち続けたあの時は、全くだったのに。

私はあの頃の居場所を、離れるしかなかった。
それは安堵と、孤独だった。


優しい出汁の香り。
寄せ鍋には白菜、椎茸、長ネギ、豆腐。
それから大きな骨付鳥を各自一本ずつ。お店のもので、美味しいと評判らしいものを買ってきてくれた。
小さな机にぴったりと並べて、私達は食べて飲んで笑った。
「なかなか決まらなかったんだよ。ケイくんこだわり強いから。鍋の素で簡単にしようと思ったのに」
「あの店の品揃えが悪いんだよ。これ美味いからいいじゃん」
二人のやり取りを見ながら、私はとても嬉しくなる。あの頃に戻れたような気がして。

時が過ぎるのは早い。
美味しいものを口にしていると、特に。

「じゃまた、連絡するわ」
ケイさんは手を挙げて、先に出て行く。
扉を開けると入ってくる雨の空気と匂い。
「歩夢さんご馳走様でした。久々にゆっくり会えてとても、嬉しかった」
「百合ちゃんから連絡くれて、嬉しかったよ。ほんとに。夏帆(かほ)、文音ちゃんの行ってた高校に入ることにしたんだよ。文音ちゃんにもまた会いたいな。今週末は休みもらってるから、また来週会えるね。またね」
歩夢さんは翔平さんのピザ屋で、ランチタイムのパートに入っている。持ち手のしっかりとした男物の傘を手にして、歩夢さんも帰っていった。きっと旦那さんのものだと思う、黒い大きな傘を手に。

部屋の中は、出汁と鶏肉と焼酎の匂いが立ち込めていた。私はベランダに続く窓を開ける。外は大粒の雨が降っていた。

ひとりぼっちになった。

それは私を、とても安心させた。
あんなに楽しかったのに。

私はもういつでも、ひとりぼっちになれる。





ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み