第32話 男の子
文字数 2,447文字
お店を再開すると、またお客さんが来始める。けれど、さっきのピークの時と違って、心の準備をしていたから、少し余裕を持って対応することができた。
「おいしいって聞いてきたよ」なんて、朝に来たお客さんから評判を聞いたお客さんもいた。喜んでもらえてるってわかって、なんだかほっとする。
忙しいと、時間が経つのがあっという間だ。たくさんの人にきてもらって、気がつくと夕方にさしかかっている。お客さんの入りもだいぶん落ち着いてきた。
二人組のお客さんが帰ると、お店には私とあおいちゃんの二人だけになった。
「忙しかったね」
「ほんと」
「ももかちゃんのお菓子、すごく人気だ」
「あおいちゃんが協力してくれるおかげだよ」
あおいちゃんの不思議な力でできたお店。それに、仕込みも手伝ってもらっているし、接客はとても上手だし。こんなにうまくいくのは、楽しいのはあおいちゃんのおかげだ。
あとどれくらい、お客さん来てくれるかな。夜になると店じまいだから、あまり時間は長くはない。
「こんにちは」
「こんにちは。いらっしゃいませ」
扉をあけて、男の子のお客さんが入ってきた。なんだか、あいさつする声のトーンに元気がないみたい。どうかしたのかな。
男の子は、お店のなかをきょろきょろと見渡したあと、私に向かって尋ねた。
「あの、フィナンシェってありますか」
「はい、ありますよ。こちらです」
「おいしそう。それ、ください」
「ありがとうございます、お待ちください」
包装紙に包んで、男の子にマドレーヌを差し出す。すると、男の子は、すぐに受け取ろうとはせずに、じっと何やら考え事をしている様子だった。
「どうかしたの?」
心配になって、思わず丁寧語が抜けて友達相手みたいな話し方をしてしまう。
「うん、ちょっと悩んでることがあって……」
男の子はそう言うと、うつむいた。私は、あおいちゃんと顔を見合わせる。
「お客様、こちらのお席へどうぞ」
あおいちゃんが、テーブルの席を指し示す。男の子は、一瞬きょとんとしたけれど、言われたとおりに席に着いた。
「ゆっくりしてって。時間は大丈夫?」
「う、うん。大丈夫」
「ハーブティー用意するね。お金は気にしなくていいからねっ」
「ありがとう」
うしろの戸棚からジャスミンの茶葉を取り出す。その間に、あおいちゃんは男の子の向かいに席に座った。
上品で、甘い香りが広がる。ジャスミンは、リフレッシュしたいときに、ピッタリだと思う。あと、口当たりも良くて、飲みやすい。
男の子は、ゆっくりと話を始めた。
「フィナンシェ、お姉ちゃんが昔から好きなんだ」
「もしかして、お姉ちゃんにプレゼントするの?」
「うん、お姉ちゃん、最近ずっと落ち込んでてさ。元気出してほしくて」
やっぱり元気のないトーンで言うと、口を閉じた。遠くで蝉の鳴く声が聞こえる。
「はい、どうぞ」
私はハーブティーのカップをテーブルに置いた。
「ありがとう。いただきます」
男の子は、ハーブティーを一口飲むと、続きを話してくれた。
「僕とお姉ちゃんは、二人で歌を歌っているんだ。この間ね、あるコンクールに参加したんだけど……」
男の子――フィルというらしい―――は自分のこと、コンクールのことをいろいろ教えてくれた。お姉ちゃんと二人で歌手になると、お互い約束したこと。小さい頃から、ずっと二人で練習していること。コンクールで優勝することが、目標の第一歩だったこと。
なんでも、コンクールは歌手への登竜門と言われているらしく、そこで優勝するのが、プロデビューへの第一歩なんだそうだ。
けれども、結果はうまくいかなかった。優勝はおろか、審査員にいろいろ言われてしまい、それでお姉ちゃんが落ち込んでいるらしい。
「お姉ちゃん、最近頑張りすぎて心配なんだ」
「頑張りすぎ?」
「コンクールの前から、絶対優勝するって気負っていてね。ずっと音楽の勉強したり、一人で練習したり。でもね、お姉ちゃん全然楽しそうじゃないんだ。最近は笑ってくれることも少なくて、コンクールが終わってからはずっとふさぎ込んでる」
フィルは少し目を伏せた。
フィルの言うお姉ちゃんって、どんな子なんだろう。まじめで、頑張り屋さんなんだろう。きっと、成果が出せなくて、悔しかったんだ。自分を責めてしまうんだ。
ジャスミンの甘い香りが、こちらまでふわふわとただよってきた。すっと吹く風のように香りがかけめぐる。
あおいちゃんは、少し目線を下げて、優しい声で言った。
「フィルは、お姉ちゃんのことがとても大切なんだね」
「うん、大好き。世界でたった一人のお姉ちゃんだからね」
フィルは、まっすぐな目で言い切る。
「だから、早く元気になってほしい。元気なお姉ちゃんと、また歌を歌いたいんだ」
真剣な表情のフィルを見ていると、気持ちが届いてほしいなと思う。
「きっと、フィルの気持ち、お姉ちゃんに伝わると思うよ」
「だといいけど……」
「そうだよ、そんなに思ってくれて、お姉ちゃんはうれしいと思うよ」
少し不安そうなフィルの顔から、迷いが消えたように見えた。
「勇気出たよ。フィナンシェ渡して、ちゃんと気持ちを伝えるね」
「うん、きっと喜んでくれるよ。なんてったってうちの自慢のパティシエールももかちゃんが作ったものだからね」
突然、名前を出されてびくっとする。持ち上げられても、困るよ、と内心で突っ込む。でも、気持ちが伝わって、笑顔になってほしいなって、私も心から思っている。
「ハーブティー、おいしかったです。ごちそうさまでした」
フィルは、丁寧にお礼を言うと、椅子から立ち上がった。
穏やかな午後。傾いた日差しが、ゆるやかに、店の奥まで差し込んでくる。店内が、やわらかな光に包まれていた。
フィルが出て行ったあと、しばらくお客さんは誰もこなかった。外はまだ明るいけれど、日が少しだけ落ち始めている。
「もうそろそろ閉店だね」
「うん、もう少しだね」
「フィル、もうお姉ちゃんに会えたかな」
「会えてるといいなあ」
「おいしいって聞いてきたよ」なんて、朝に来たお客さんから評判を聞いたお客さんもいた。喜んでもらえてるってわかって、なんだかほっとする。
忙しいと、時間が経つのがあっという間だ。たくさんの人にきてもらって、気がつくと夕方にさしかかっている。お客さんの入りもだいぶん落ち着いてきた。
二人組のお客さんが帰ると、お店には私とあおいちゃんの二人だけになった。
「忙しかったね」
「ほんと」
「ももかちゃんのお菓子、すごく人気だ」
「あおいちゃんが協力してくれるおかげだよ」
あおいちゃんの不思議な力でできたお店。それに、仕込みも手伝ってもらっているし、接客はとても上手だし。こんなにうまくいくのは、楽しいのはあおいちゃんのおかげだ。
あとどれくらい、お客さん来てくれるかな。夜になると店じまいだから、あまり時間は長くはない。
「こんにちは」
「こんにちは。いらっしゃいませ」
扉をあけて、男の子のお客さんが入ってきた。なんだか、あいさつする声のトーンに元気がないみたい。どうかしたのかな。
男の子は、お店のなかをきょろきょろと見渡したあと、私に向かって尋ねた。
「あの、フィナンシェってありますか」
「はい、ありますよ。こちらです」
「おいしそう。それ、ください」
「ありがとうございます、お待ちください」
包装紙に包んで、男の子にマドレーヌを差し出す。すると、男の子は、すぐに受け取ろうとはせずに、じっと何やら考え事をしている様子だった。
「どうかしたの?」
心配になって、思わず丁寧語が抜けて友達相手みたいな話し方をしてしまう。
「うん、ちょっと悩んでることがあって……」
男の子はそう言うと、うつむいた。私は、あおいちゃんと顔を見合わせる。
「お客様、こちらのお席へどうぞ」
あおいちゃんが、テーブルの席を指し示す。男の子は、一瞬きょとんとしたけれど、言われたとおりに席に着いた。
「ゆっくりしてって。時間は大丈夫?」
「う、うん。大丈夫」
「ハーブティー用意するね。お金は気にしなくていいからねっ」
「ありがとう」
うしろの戸棚からジャスミンの茶葉を取り出す。その間に、あおいちゃんは男の子の向かいに席に座った。
上品で、甘い香りが広がる。ジャスミンは、リフレッシュしたいときに、ピッタリだと思う。あと、口当たりも良くて、飲みやすい。
男の子は、ゆっくりと話を始めた。
「フィナンシェ、お姉ちゃんが昔から好きなんだ」
「もしかして、お姉ちゃんにプレゼントするの?」
「うん、お姉ちゃん、最近ずっと落ち込んでてさ。元気出してほしくて」
やっぱり元気のないトーンで言うと、口を閉じた。遠くで蝉の鳴く声が聞こえる。
「はい、どうぞ」
私はハーブティーのカップをテーブルに置いた。
「ありがとう。いただきます」
男の子は、ハーブティーを一口飲むと、続きを話してくれた。
「僕とお姉ちゃんは、二人で歌を歌っているんだ。この間ね、あるコンクールに参加したんだけど……」
男の子――フィルというらしい―――は自分のこと、コンクールのことをいろいろ教えてくれた。お姉ちゃんと二人で歌手になると、お互い約束したこと。小さい頃から、ずっと二人で練習していること。コンクールで優勝することが、目標の第一歩だったこと。
なんでも、コンクールは歌手への登竜門と言われているらしく、そこで優勝するのが、プロデビューへの第一歩なんだそうだ。
けれども、結果はうまくいかなかった。優勝はおろか、審査員にいろいろ言われてしまい、それでお姉ちゃんが落ち込んでいるらしい。
「お姉ちゃん、最近頑張りすぎて心配なんだ」
「頑張りすぎ?」
「コンクールの前から、絶対優勝するって気負っていてね。ずっと音楽の勉強したり、一人で練習したり。でもね、お姉ちゃん全然楽しそうじゃないんだ。最近は笑ってくれることも少なくて、コンクールが終わってからはずっとふさぎ込んでる」
フィルは少し目を伏せた。
フィルの言うお姉ちゃんって、どんな子なんだろう。まじめで、頑張り屋さんなんだろう。きっと、成果が出せなくて、悔しかったんだ。自分を責めてしまうんだ。
ジャスミンの甘い香りが、こちらまでふわふわとただよってきた。すっと吹く風のように香りがかけめぐる。
あおいちゃんは、少し目線を下げて、優しい声で言った。
「フィルは、お姉ちゃんのことがとても大切なんだね」
「うん、大好き。世界でたった一人のお姉ちゃんだからね」
フィルは、まっすぐな目で言い切る。
「だから、早く元気になってほしい。元気なお姉ちゃんと、また歌を歌いたいんだ」
真剣な表情のフィルを見ていると、気持ちが届いてほしいなと思う。
「きっと、フィルの気持ち、お姉ちゃんに伝わると思うよ」
「だといいけど……」
「そうだよ、そんなに思ってくれて、お姉ちゃんはうれしいと思うよ」
少し不安そうなフィルの顔から、迷いが消えたように見えた。
「勇気出たよ。フィナンシェ渡して、ちゃんと気持ちを伝えるね」
「うん、きっと喜んでくれるよ。なんてったってうちの自慢のパティシエールももかちゃんが作ったものだからね」
突然、名前を出されてびくっとする。持ち上げられても、困るよ、と内心で突っ込む。でも、気持ちが伝わって、笑顔になってほしいなって、私も心から思っている。
「ハーブティー、おいしかったです。ごちそうさまでした」
フィルは、丁寧にお礼を言うと、椅子から立ち上がった。
穏やかな午後。傾いた日差しが、ゆるやかに、店の奥まで差し込んでくる。店内が、やわらかな光に包まれていた。
フィルが出て行ったあと、しばらくお客さんは誰もこなかった。外はまだ明るいけれど、日が少しだけ落ち始めている。
「もうそろそろ閉店だね」
「うん、もう少しだね」
「フィル、もうお姉ちゃんに会えたかな」
「会えてるといいなあ」