第40話

文字数 3,040文字

 シンと呼ばれた男は、殆ど口をきかない寡黙な男だった。三ツ矢が何故刑務所に入っていたのか質問しても、もごもごと口の中で話す男だった。三ツ矢からすれば、新たに加わったキングの部下のシンをどういう人間か分かって置きたかったから、いろいろと質問した。だが、どの質問にもシンは満足に答えなかった。そのうち、三ツ矢はシンという男への興味を失った。が、これが後々三ツ矢にとって大きな意味になるとは、この時は思っても見なかった。
 最初の取引から十日程経った日。三ツ矢は安藤に言って、二回目の取引をするぞと言った。
「又、あの極上ネタを手に入れられるんだね」
 安藤はもう目がトロンとなっている。完全なジャンキーだ。その事を三ツ矢が言うと、
「だってしょうがないじゃないか。あんな極上ネタを目の前にすれば、一度でもシャブを食った事のある奴なら、今の俺と同じ気持ちになるよ」
「そういうものか」
「ああ、そういうものだよ」
 三ツ矢は仕方無いなと思い、この件は諦めた。安藤は、十日とせずに又あの極上ネタを取引出来るかと思ったら胸が躍った。普通、覚せい剤という物は、一番の大元で極上のネタだったとしても、間に仲買人が入る度に混ぜ物をして、儲けの幅を大きくしようとする。そういう行為は末端に行けば行くほど顕著になる。安藤がこれ迄扱って来たネタはそういう物だったから、キングから仕入れたネタが超が付く程の極上物である事に感動すらしてしまうのも、無理からぬ事だ。
「今度はどれ位取引するんだい?」
 安藤の質問に、三ツ矢はどうか迷った。キロ単位の取引にはしたいが、問題は金だ。今度の取引にキング自ら出て来てくれれば問題無いが、そうじゃなければ分室から出る金に頼るしかないが、金額に限りがある。ならば今回も自前でとなると、先の取引で手に入れたブツを急いで捌いて金を作らねばならない。そこで、今日安藤を呼びつけたのだ。
「近いうちにキロ単位の取引をしたい。だが金が足りない。そこでこの前手に入れたブツを、あんたの知っている仲買人連中に売り捌いて欲しいんだ。それで金を作る」
「結構切羽詰まってんだね」
「ああ。あんたの肩に掛かっている」
「じゃあ、条件として、あのネタをもう少し俺にくれるかい?」
 安藤が三ツ矢の足元を見て交渉して来た。
「仕方無い。今のあんたには逆らえない」
「キングを引っ張り出す迄の間は、こういう風に自転車操業になると思う」
「マトリも結構懐が寂しいんだね」
「一応お国の機関だからな。税金で食っている以上、使える金の限度が決まっている」
「じゃあ、早速卸す相手を探すよ。何人かは知っている奴がいるけど、そいつらでネタの全部が捌ければいいけどな」
「あんたが頼りだ」
「よしてくれ。気持ち悪い。マトリから頼りにされても背筋が寒くなるだけだよ」
 三ツ矢と安藤は笑った。こういう冗談が出て来るという事は、任せて大丈夫という事なんだろうと三ツ矢は思った。
 安藤の動きは早かった。僅か一日で三組の仲買人を攫み、それぞれにネタを降ろし、三日後には別な仲買人と初めて取引をする仲買人にネタを降ろした。卸値はグラム二万。最初は先方もこの値段を聞いて乗り気では無かったが、特別に試し射ちをさせると、皆ネタの純度の高さに驚き、我先にと群がった結果だった。
「全部で四百万出来たよ」
 売った代金を三ツ矢に渡すと、得意気に安藤は、
「ネタの売の感覚は衰えてないな」
 と言った。
「今の手持ちと併せれば、キロの取引が出来る。安藤ありがとう」
「よせよ。あんたが礼を言うなんて。あのネタをただでくれたお礼だよ」
 安藤のジャンキーの顔が出た。その安藤のお陰で軍資金が出来たので、次の取引をする事にした。吉良に電話をする。
(又、ネタを頼みたいんだ。量は一キロ)
(構わないが、前回の取引といい、マトリとは関係ないんだな?)
(ああ。俺個人の為だ)
(マトリの人間がシャブの売をするなんて、世も末だな)
(何を言われても、今の俺には関係ない事だ。金がいるんだ。それにはあんた達のブツが必要なんだ)
(分かったよ。あんたをそこ迄追い込んだ責任はこっちにもあるからな)
 吉良は幸恵達の監視の件を言っているらしい。
(本気でそう言ってくれているのなら、二度とあんな真似はしないでくれよ)
(ああ、もうしないよ)
 吉良はそう言ったが、三ツ矢は安心出来ないと思った。
(キングはどうしてる?)
(どうもしてないよ。いつもと変わらずにいる。何か用事でもあるのか?)
(用事があっちゃいけないのかい?)
(今日は随分と絡むな。あの件を今でもまだ根に持っているのかい?)
(俺の立場になったら分かるよ。それよりキングと久し振りに話をしたいな)
(キングならいつでも会ってくれるよ)
(じゃあ、この次の取引の時にでも会えないかな?)
(それは無理だ。少なくとも、もっと大口の取引にならなければ、キングは自分から取引の場には出ない)
(分かった。何キロ位の取引だったら立ち会うんだ?)
 三ツ矢は、余りしつこく聞くと墓穴を掘るかも知れないと思ったが、勢いで尋ねてしまった。
(どうしてそんな事が知りたいんだ?)
 スマホを右耳に押し付けている手が汗ばんで来た。背中もじっとりと汗を搔いている。
(大口の取引で、キングがどういう反応をするのか見てみたいんだ)
 余り良い理由ではないと思ったが、他に理由が浮かばなかった。少しの間、吉良に沈黙が訪れた。
 吉良は思った。三ツ矢の電話での態度は、吉良に取って不信感を募らせるのに充分なものだった。Wとして、麻薬取締局と自分達の両方へ仕えている三ツ矢の立場を考えれば、いつ態度を豹変させてもおかしくない。Wの仕事として、自分達を追っていた東京分室を排除した仕事は評価出来るが、その後はWらしい仕事は余りしていない。それと、三ツ矢の自宅を監視した事が露見し、その反動でこの所の三ツ矢の態度は見る者からすれば、Wとしての役割を忘れ、マトリの仕事に集中する事も考えられる。いや、もっと状況が悪くなれば、キングを貶め、逮捕すると言う事を考えていてもおかしくない。それらの事が短時間に頭の中を過った。
(最低でも百キロの取引じゃなければキングは出て来ないよ)
 間が空いてからの言葉に、三ツ矢は一瞬応じるのが遅れた。
(じゃあ、百キロの取引が出来るよう買ったネタを捌くよ)
(期待しているよ)
 吉良は思ってもいない事を口にした。三ツ矢も馬鹿ではない。電話での吉良の気持ちの変貌を感じていた。吉良はきっと今でも自宅を監視しているに違いない。だが、今は上司の細田と柳沢にWだった事を打ち明け、自宅の警護も頼んである。もし、吉良がキングの命令で、或いは自分の考えで幸恵と聖来を襲えば、その場で逮捕されるし、それを機会にキングもお縄に出来る。
 吉良との電話を切った三ツ矢は、柳沢課長に電話をし、念の為に家族の無事を確認した。
(監視は付いてますか?)
(いや。そういう報告は来ていない)
(良かった)
(仮にこっちに気付かれないように監視してたとしても、指一本触れさせないから安心しろ)
(ありがとうございます。助かります)
(そっちの方の心配は無用だ。その分キングの事に集中してくれ)
(分かっています。必ずキングを挙げるお膳立てをします)
 そう言って三ツ矢は電話を切った。マトリの捜査官が家族を見守ってくれる。電話の通り、自分はキングの事に集中すればいいだけだ。三ツ矢は初台のアジトでシャブをキメたキングの顔を思い浮かべた。
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