第9話 居酒屋
文字数 1,191文字
晶子は空腹だった。しかし、笑顔を崩さなかった。どうして今日はこんなにお客様が来られるのだろう? 不思議だが、働くしかない。ここ数年でネット決済が急増したので、窓口では少数の面倒な手続きを、ゆっくりやればよい。そう思うようになっていたので、こんなに忙しい日は実に辛い。
晶子の表の顔。それは澄和銀行牟田無支店の窓口担当。入行七年目の今、分からない手続きはほとんどなくなった。後輩の指導も任されている。充実した銀行員生活だ。一週間前の夜、牟田無中央公園でその充実に輪をかける出来事があった。あの日、恋人の結三郎にプロポーズされたのだった。あれ以降、後輩たちへの態度が優しくなったと自覚している。不思議なもので仕事も頑張ろう、と思っている。不思議、というのは、実は晶子にとってこの仕事が主な収入源ではないからだ。極秘に依頼される、闇の組織からの鑑定依頼。鑑定自体は楽しいのだが、やはり後ろめたい。澄和銀行でもマネーロンダリング対策は重要で、窓口では本人確認をしつこく行っている。その一方で闇の組織からの報酬は、全く別名義のタックスヘイブンを敷く国の口座をいくつも経由して、手元に届いている。結婚を機に、そんな危険な生活からは手を引こうかとも考えていた。
しかし先日、結三郎が渡してくれた婚約指輪を見て、気持ちが揺らいでいた。あんな高品質なダイヤモンドを、どうやって高給とも思えない結三郎が入手できたのだろう? 自分を棚に上げ、危険なことをしているのなら止めてほしいと思った。一方で、こちらが重要なのだが、この左薬指に輝くダイヤモンドの出どころにも俄然興味が湧いていた。
忙しい窓口業務が終わり、そんなことを考えていたら、後輩が配っていたお菓子を食べ損ねた。これまでであれば晶子の分は確保されていたのに、数日ちょっと優しくしていた為かなめられたようだ。いや、食べたのは札増さんか。それなら晶子も従うしかない。本部から異動してきた窓口のスーパー課長代理。女性行員の出世頭の一人で実は同期だ。何かと晶子に当たってくる嫌な女。これはもう、無視。
そして終業時間になった。忙しかった割に定時に仕事が終わった。これは自分たちが優秀な証拠。札増なんて早く本部に帰ればいいのに。そう思いながら、独りで居酒屋に入った。個室に籠って昼の分を取り返そうと好物を注文しまくった。そして約一時間。今夜は結三郎と会う予定はなく、例の仕事もない。満腹になり、ほろ酔いで会計に向かった。
「お会計は消費税込みで四千六百二十円です。それと残飯特別税で、合計六千七百二十円になります」
しまった、と思ったがもう遅い。牟田無市は先日、法定外目的税として本体価格の五十パーセントとなる残飯特別税を導入したのだった。江古田研究所出身の若手市長が食品ロス対策としてぶち上げ、実現した画期的な地方税。賛同し、彼に投票した自分を恨んだ。
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