第52話 妖魔の質
文字数 2,054文字
「親父さん、娘さんはこんな宵に出かけたのかな?」
錦 が聞くと、そんなことはないとのこと。
店の親父は女将や従業員に聞いたが、ほんの今まで台所にいたと思ったけど、と誰もが言う。
これは変だとなった時、錦 は店を飛び出した。
左右を見回し、目の端に、五十鈴川の方へ流れていく娘の鮮やかな桃色の着物の端が、かすかに入った。
錦 は突進し、河原に降りた。
すると川の上流に向かって、跳梁 していく影を見た。妖魔が娘を抱えて逃げていくところだった。
錦 は心気で瞬時に脚力を強化し、駆け出した。
しかし恐ろしく足の速い妖魔で、錦 が全力で追いかけながらも、見失いそうになる。
やがて滝壺に至り、妖魔は滝の裏側に消えた。
濡れるのを厭わず、錦 も滝へ突っ込むと、そこは洞窟になっていた。
妖魔は錦 の追跡に気付いている。
暗い洞窟を慎重に歩を進め、ずいぶん歩くと、やがて崩落してできたのか、すっぽりと天井が抜け落ちた広い空間に出た。
日はまもなく落ちそうだが、洞窟よりはよほど明るい。地上までは3mほどあるだろうか。
その時、頭上から声が落ちてきた。
「ここまで追ってこられる人間がいるとはな」
錦 が声がする方に向くと、そこには、猿の顔、人の身体を持つ妖魔がいた。
抱えていた娘は見当たらない。
「娘はどこだ?」
錦 は両足に心気を込め始めた。
「おや? 見なかったか? うっかり坊やだなあ。洞窟の食糧庫に保管してきたが」
「生きてるんだな?」
「そりゃ生きてるさ。俺は生きたまま若い娘を食うのが好きなんだ。それにこの地域の娘は、知らずに心気を含んでいる上物が多い。泣き叫ぶ声もスパイスになるのよ、たまらんよ」
「生きてることがわかれば十分だ。お前はもう死ね」
錦 は素早く跳躍し、妖魔の目の前に躍り出た。
そのまま猿の顔を右足で横蹴りにすると、猿は吹っ飛んだが空中で回転し着地した。
「なかなか速いじゃねぇか。しかしスピードじゃ負けねぇぜ」
猿は森の中へ逃げ込んだ。
錦 はすかさず追う。
猿はその特性を活かし、木からから木へと伝っていく。
森の中では猿が有利だ。
2人の距離はジリジリと開き、錦 はやがて敵を見失った。
伊勢の深い原生林の中、日もとっぷりと落ち、あたりは闇に包まれている。
その時、風を切る音が聞こえたと思うと、その瞬間に錦 の左腕は猿の爪で切り裂かれていた。
咄嗟に腕を引いたことで、幸い傷は浅い。
また風を切る音が聞こえ、今度は左足をやられた。足は予想していなかったため庇えなかった。
太ももから血が滲んだ。
相手のホームフィールドに誘い込まれていたのだ。
しかし、錦 は完全に落ち着いていた。
相手がどこからどこを狙ってくるかわからない。
それならそれでやりようがある。
いくつかの選択肢を頭に浮かべ、錦 は素早く、そのうちの一つを選択した。
(こいつ、あきらめたか、全身の力が抜けてやがる)
猿は一気に決めるため、急所を狙って突っ込んできた。
錦 は、掌 で作った心気弾をはじけさせ、四方八方に飛ばした。
猿は突っ込みながら、顔に何かが当たったのを感じたが、気にしなかった。
次の瞬間、猿は夜空を見上げていた。月が近くになった気がしたが、また遠ざかる感覚もあった。
木々が目に飛び込み、最後に、自分を追いかけてきた人間の顔が目の前にあった。
錦 は、首だけになった猿の頭の毛を掴み、目線を合わせ、問いかけた。
「娘はどこだ?」
「? 俺は、どうなった?」
「俺に首を落とされた」
「いつ? おまえには俺が見えてなかったはずだ」
「そうだ」
「な、なぜ?」
「心気を放って距離と方角を測った」
(顔に当たったあれか……!)
猿は、相手の人間が、右手に大剣を握っているのをみた。
(こいつ、こんなでかい剣を一瞬で抜いて振るったのか……敵うわけがねえ……)
「娘は、滝の洞窟だ」
「一本道に見えたが」
「俺の妖力で部屋をひとつ隠していた。もう解けているだろう」
「そうか」
錦 は猿の頭を地面に落とし、去って行った。
猿は思った。
俺は200年生き、女も、男も、破邪士も、ずいぶん食った。
だがあんな異次元な強さの破邪士なぞ、いた試しがなかった。
猿は身体が蒸発するのを感じながら、自らの死に納得した顔で、最期を迎えた。
洞窟には、蕎麦屋の娘だけでなく、他に3人の女がいた。
いずれも衰弱していたが、命に別条はなく、歩けない者を錦 がおぶり、山を降りた。
錦 は、山を降りながら、妖魔の質がはっきりと変わってきたことを思った。
今までは、野犬を追い払う感覚で妖魔と対峙してきた。
しかし、この猿は、人並みに物を考え、行動していたように感じた。
コイツは弱かったが、妖魔が戦略的に動くようになったらどうか?
組織的になればどうか?
強い妖魔がそれを指揮したら?
とても1人では抑えきれない。
多くの人間が死ぬ。
今日のようには、娘を守れない。
寡黙に夜の山道を下りながら、錦 は破邪士としての自分のなすべきことを、悟ったのだった。
店の親父は女将や従業員に聞いたが、ほんの今まで台所にいたと思ったけど、と誰もが言う。
これは変だとなった時、
左右を見回し、目の端に、五十鈴川の方へ流れていく娘の鮮やかな桃色の着物の端が、かすかに入った。
すると川の上流に向かって、
しかし恐ろしく足の速い妖魔で、
やがて滝壺に至り、妖魔は滝の裏側に消えた。
濡れるのを厭わず、
妖魔は
暗い洞窟を慎重に歩を進め、ずいぶん歩くと、やがて崩落してできたのか、すっぽりと天井が抜け落ちた広い空間に出た。
日はまもなく落ちそうだが、洞窟よりはよほど明るい。地上までは3mほどあるだろうか。
その時、頭上から声が落ちてきた。
「ここまで追ってこられる人間がいるとはな」
抱えていた娘は見当たらない。
「娘はどこだ?」
「おや? 見なかったか? うっかり坊やだなあ。洞窟の食糧庫に保管してきたが」
「生きてるんだな?」
「そりゃ生きてるさ。俺は生きたまま若い娘を食うのが好きなんだ。それにこの地域の娘は、知らずに心気を含んでいる上物が多い。泣き叫ぶ声もスパイスになるのよ、たまらんよ」
「生きてることがわかれば十分だ。お前はもう死ね」
そのまま猿の顔を右足で横蹴りにすると、猿は吹っ飛んだが空中で回転し着地した。
「なかなか速いじゃねぇか。しかしスピードじゃ負けねぇぜ」
猿は森の中へ逃げ込んだ。
猿はその特性を活かし、木からから木へと伝っていく。
森の中では猿が有利だ。
2人の距離はジリジリと開き、
伊勢の深い原生林の中、日もとっぷりと落ち、あたりは闇に包まれている。
その時、風を切る音が聞こえたと思うと、その瞬間に
咄嗟に腕を引いたことで、幸い傷は浅い。
また風を切る音が聞こえ、今度は左足をやられた。足は予想していなかったため庇えなかった。
太ももから血が滲んだ。
相手のホームフィールドに誘い込まれていたのだ。
しかし、
相手がどこからどこを狙ってくるかわからない。
それならそれでやりようがある。
いくつかの選択肢を頭に浮かべ、
(こいつ、あきらめたか、全身の力が抜けてやがる)
猿は一気に決めるため、急所を狙って突っ込んできた。
猿は突っ込みながら、顔に何かが当たったのを感じたが、気にしなかった。
次の瞬間、猿は夜空を見上げていた。月が近くになった気がしたが、また遠ざかる感覚もあった。
木々が目に飛び込み、最後に、自分を追いかけてきた人間の顔が目の前にあった。
「娘はどこだ?」
「? 俺は、どうなった?」
「俺に首を落とされた」
「いつ? おまえには俺が見えてなかったはずだ」
「そうだ」
「な、なぜ?」
「心気を放って距離と方角を測った」
(顔に当たったあれか……!)
猿は、相手の人間が、右手に大剣を握っているのをみた。
(こいつ、こんなでかい剣を一瞬で抜いて振るったのか……敵うわけがねえ……)
「娘は、滝の洞窟だ」
「一本道に見えたが」
「俺の妖力で部屋をひとつ隠していた。もう解けているだろう」
「そうか」
猿は思った。
俺は200年生き、女も、男も、破邪士も、ずいぶん食った。
だがあんな異次元な強さの破邪士なぞ、いた試しがなかった。
猿は身体が蒸発するのを感じながら、自らの死に納得した顔で、最期を迎えた。
洞窟には、蕎麦屋の娘だけでなく、他に3人の女がいた。
いずれも衰弱していたが、命に別条はなく、歩けない者を
今までは、野犬を追い払う感覚で妖魔と対峙してきた。
しかし、この猿は、人並みに物を考え、行動していたように感じた。
コイツは弱かったが、妖魔が戦略的に動くようになったらどうか?
組織的になればどうか?
強い妖魔がそれを指揮したら?
とても1人では抑えきれない。
多くの人間が死ぬ。
今日のようには、娘を守れない。
寡黙に夜の山道を下りながら、