第8話 変な風邪
文字数 3,553文字
夏の日差しがジリジリと肌を焼き、湿気をまとった空気が身体にまとわりつく。私は会社を休み、都心から2時間も電車に揺られ、長屋が建ち並ぶ下町にやって来ていた。
わざわざこんなところまで足を運んだのは、この訳の分からない身体の異常を診てもらうためであった。
夏が始まった頃から、身体に異変が起こり、これまでに4つの病院で診察をしてもらったが、どこも要領を得ない結果ばかりだった。
高度な最新医療を導入した大学病院でも診てもらったが、高額な診察代を取られただけで、異常無しなどと診断された。
「余り気にしないことですね」と言った東大出のエリート医師の顔を、一生忘れないだろう。私からすれば、身体に異常があるのは、火を見るよりも明らかなのに。
藁にも縋る思いで、家の近所の漢方薬局店に相談に行ったところ、ある診療所を紹介してもらったのだ。
その診療所は、狭い路地の突き当たりにあり、割りと新しい造りではあったが、周りが瓦屋根の木造建設の家ばかりであったが為、そう見えたのかもしれない。
看板も無く、知らぬものが見たら、そこが病院である事は分からないであろう。にもかかわらず、中に入ると患者は、それなりにいた。
私は1時間ほど待たされ、ようやく診察室に通された。ずいぶん年老いた医師が、腰をまるめて座っていた。
見た目はヨボヨボの老人であるが、老眼鏡の奥に覗かせる目は、身体の中まで見透かしているような、鋭さがあった。
ここを紹介してくれた漢方薬局店の薬剤師さんから聞いた話だが、業界内ではこの医師は「奇病先生」と呼ばれているらしい。
その奇病先生が、私の診察を終えると、若干テンションが上がった様子で、こう言った。
「間違いない。やっぱりそうじゃな」
今までにない反応に、ここまで来た甲斐があったと思う反面、怖さもあった。
「どこの病院に行っても、何も見つからなかったんですが、何か分かったんですか?」
「珍しい病気ですからね。大衆向けの病院では、分からんじゃろうな。ただ、そんなに心配なさらなくても、きっちんとした処置さえすれば、すぐに治りますよ」
「先生、それで私は、何と言う病気なんでしょうか?」
「右半身風邪です」
「え!?右半身風邪…」
聞き覚えの無い病名に、私は目を丸くして聞き返していた。
「体の半分の神経が麻痺してしまう、半身不随という病気があるのはご存知かな」
「あ、はい」
「簡単にいえば、その風邪版です」
確かに、身体の右側だけが、だるくて、しんどくて、熱っぽくて、風邪のような症状が出ている。
節々が痛いのも、頭がズキズキするのも、のどが腫れているのも、右側だけ。そういえば、右の鼻の穴からは鼻水が垂れてくるが、左は何ともなかった。
ゴホン!ゴホン!ゴホン!と、私は身体の右側だけを揺らして咳をした。どうやら咳も、右側からしか出ていないようだ。
いっぽう身体の左側は、嘘のように、元気はつらつで、活力がみなぎっている。右側だけが、風邪をひいていると言われるのも頷けなくもないが、そんな病気があるのかと信じられない思いだった。
「熱を測りますので、体温計を両方の脇に挟んで下さい」
医師は体温計を2本差し出した。
私は指示にしたがい、体温計をひとつずつ両方の脇に挟んだ。しばらく待つと、ピピピッ、と2本の体温計がほぼ同時に鳴る。
左側は35度と平熱だったのに対し、右側は38度5分もあった。
これまでも、何度も熱を測ったが、いつも平熱の35度だったので、熱はないと判断されていた。それは、毎回左脇で測っていたからだったんだ。
右側は38度5分もあるのか。どうりで、右半身に倦怠感があるはずだ。
「先生、私は何故こんなけったいな病気に掛かったのでしょうか?」
気になったので、率直に質問した。
すると、医師のカルテを書く手が止まった。言うべきかどうか考えているような間のあと、私の方に向き直ると、無表情で話し出した。
「正直に答えて下さい。あなた妻子持ちですね」
これが何を意味しているのか不思議であったが、私は正直に答えた。
「はい。妻も子供もいます」
「それでいて、愛人もいる」
医師はさらりと言ったが、私は動揺してしまう。どうしてそんな素性まで分かったのか、恐ろしくなった。私は嘘を付くことなく答えた。
「あ、まぁ、そうですね。はい…」
「あなたは、愛人といる時に、いつまでもこうしていたいと思う反面、妻子の待つ家に早く帰らなくてはならない、と思っている。その2つの思考が、体を2つに分けてしまったんです。この病気は、精神が2つに分かれた事により、身体が反応し発症するんですよ。そんな時に、運悪く愛人が風邪を引いていたんでしょう。このまま愛人といたいと思っていた右側だけに、風邪がうつったというわけです」
私は、夏前に愛人が風邪を引いていた事を思い出す。
「…そんな事ってあるんですね」
「あなたの場合は女性関係でしたが、上司と部下、嫁と姑、などの板挟みで、発症する場合もあります。《板挟み病》とも称される事もあるぐらいです。ただ、板挟みにあったとしても、発症するケースの方が稀ですがね。発症する者と発症しない者の差はなんなのかまでは、まだ解明されていません」
家に着くと、妻と子供たちが玄関まで出迎えに来てくれた。心配してくれて嬉しく思う反面、私は胸が締め付けられるような気持ちになる。
こんなけったいな風邪にかかったのは、そもそも家族を裏切っていたからなのだ。
私の左半身が、私の右半身を、殴りつけたい衝動にかられるが、何とか抑える。
そんな事を知るよしもない妻と子供たちは、私の顔を見るなり、爆笑した。何故笑ったのか、すぐにピンときた。
原因は私の口元を覆うマスクであろう。普通のマスクではないのだ。
奇病先生から、大真面目に支給されたのは、右側だけにガーゼが付いた特殊なマスク。通常の口と鼻を全部覆うマスクだと、元気はつらつの左半身に風邪がうつってしまう恐れがあるので、こんな変てこなマスクをつける必要があった。
笑われても仕方がない。家族を裏切った罰として、甘んじて受け入れよう。
朝、昼、晩の1日3回分の飲み薬を2週間分出してもらったが、飲み方が少々難儀であった。
身体の右側を下にして横になり、その体勢のまま薬を飲むのだ。横になりながら、薬を水で流し込むのは、なかなかやりづらいものだ。
右側だけに薬が浸透するまで、しばらくはそのままの体勢をキープしなくてはならない。こうする事で、健康な左側に余計な負担をかけずに済むらしい。
ただ、薬代も治療費も、通常の風邪の半分しか掛からなかったのには、驚いた。
夕食は、風邪を引いている右半身を気遣い、妻がお粥を作ってくれた。右半身は食欲が無いから、ちょうど良かったが、左半身は物足りなさがあった。
お粥を食べ終わり、薬が右半身に浸透するのを待ちながら、あの奇病先生が最後に言った言葉を思い出していた。
「余計なお世話かもしれませんが。この病気、一度発症すると、頻繁にぶり返すケースがあるので、早急に身辺整理をなさった方がいいですよ。根源を絶たないと、本当の意味で完治したとはいえませんからね。今回はこの程度で済みましたが、大変な事になる場合もあるのでね。お大事に」
私は横になりながら、ふと想像してしまう。右半身風邪を何度かぶり返したのちに、右半身肺炎を引き起こし、それが益々悪化していき、右半身だけが死んでしまう。
葬式があげられ、祭壇に右半身だけの遺影が飾られ、その前に立つ左半身がワーン、ワーンと泣いている。
「さすがに、考え過ぎか。とにかく、身辺整理をしなくては」
右半身風邪が治り、数日が過ぎたが、いっこうに身辺整理に踏み出せないでいた。それもこれも、私の右半身が愛人と別れたくないようなのだ。
いざ愛人に別れ話を切り出そうとすると、私の右半身がそれを拒むかのように、右側の口を真一文字に閉じて、喋れなくするのだ。
カッとなった私の左半身が、手で強引に口をこじ開けようとするも、右半身に指を噛まれて負傷してしまう。これでは、いっこうに別れられない。
このままでは、近いうちに、右半身風邪がぶり返してしまうかもしれない。何とかしなくては。
そんな懸念を抱えたまま1か月が過ぎた頃。体に異変が起こった。風邪をぶり返したのではなくて、異変が起こったのは、妻の方だ。
「あなたの変な風邪がうつったみたいなのよ」
妻は、ゴホン!ゴホン!ゴホン!と体の左側だけを揺らして咳をした。
私からうつったにしては、時期があきすぎている。
妻も、私と誰かの板挟みになっているのだろうか。妻は、いや、妻の左半身は、その誰かを愛しているのかもしれない。私の左半身に、寒気が走った。
変な風邪・終
わざわざこんなところまで足を運んだのは、この訳の分からない身体の異常を診てもらうためであった。
夏が始まった頃から、身体に異変が起こり、これまでに4つの病院で診察をしてもらったが、どこも要領を得ない結果ばかりだった。
高度な最新医療を導入した大学病院でも診てもらったが、高額な診察代を取られただけで、異常無しなどと診断された。
「余り気にしないことですね」と言った東大出のエリート医師の顔を、一生忘れないだろう。私からすれば、身体に異常があるのは、火を見るよりも明らかなのに。
藁にも縋る思いで、家の近所の漢方薬局店に相談に行ったところ、ある診療所を紹介してもらったのだ。
その診療所は、狭い路地の突き当たりにあり、割りと新しい造りではあったが、周りが瓦屋根の木造建設の家ばかりであったが為、そう見えたのかもしれない。
看板も無く、知らぬものが見たら、そこが病院である事は分からないであろう。にもかかわらず、中に入ると患者は、それなりにいた。
私は1時間ほど待たされ、ようやく診察室に通された。ずいぶん年老いた医師が、腰をまるめて座っていた。
見た目はヨボヨボの老人であるが、老眼鏡の奥に覗かせる目は、身体の中まで見透かしているような、鋭さがあった。
ここを紹介してくれた漢方薬局店の薬剤師さんから聞いた話だが、業界内ではこの医師は「奇病先生」と呼ばれているらしい。
その奇病先生が、私の診察を終えると、若干テンションが上がった様子で、こう言った。
「間違いない。やっぱりそうじゃな」
今までにない反応に、ここまで来た甲斐があったと思う反面、怖さもあった。
「どこの病院に行っても、何も見つからなかったんですが、何か分かったんですか?」
「珍しい病気ですからね。大衆向けの病院では、分からんじゃろうな。ただ、そんなに心配なさらなくても、きっちんとした処置さえすれば、すぐに治りますよ」
「先生、それで私は、何と言う病気なんでしょうか?」
「右半身風邪です」
「え!?右半身風邪…」
聞き覚えの無い病名に、私は目を丸くして聞き返していた。
「体の半分の神経が麻痺してしまう、半身不随という病気があるのはご存知かな」
「あ、はい」
「簡単にいえば、その風邪版です」
確かに、身体の右側だけが、だるくて、しんどくて、熱っぽくて、風邪のような症状が出ている。
節々が痛いのも、頭がズキズキするのも、のどが腫れているのも、右側だけ。そういえば、右の鼻の穴からは鼻水が垂れてくるが、左は何ともなかった。
ゴホン!ゴホン!ゴホン!と、私は身体の右側だけを揺らして咳をした。どうやら咳も、右側からしか出ていないようだ。
いっぽう身体の左側は、嘘のように、元気はつらつで、活力がみなぎっている。右側だけが、風邪をひいていると言われるのも頷けなくもないが、そんな病気があるのかと信じられない思いだった。
「熱を測りますので、体温計を両方の脇に挟んで下さい」
医師は体温計を2本差し出した。
私は指示にしたがい、体温計をひとつずつ両方の脇に挟んだ。しばらく待つと、ピピピッ、と2本の体温計がほぼ同時に鳴る。
左側は35度と平熱だったのに対し、右側は38度5分もあった。
これまでも、何度も熱を測ったが、いつも平熱の35度だったので、熱はないと判断されていた。それは、毎回左脇で測っていたからだったんだ。
右側は38度5分もあるのか。どうりで、右半身に倦怠感があるはずだ。
「先生、私は何故こんなけったいな病気に掛かったのでしょうか?」
気になったので、率直に質問した。
すると、医師のカルテを書く手が止まった。言うべきかどうか考えているような間のあと、私の方に向き直ると、無表情で話し出した。
「正直に答えて下さい。あなた妻子持ちですね」
これが何を意味しているのか不思議であったが、私は正直に答えた。
「はい。妻も子供もいます」
「それでいて、愛人もいる」
医師はさらりと言ったが、私は動揺してしまう。どうしてそんな素性まで分かったのか、恐ろしくなった。私は嘘を付くことなく答えた。
「あ、まぁ、そうですね。はい…」
「あなたは、愛人といる時に、いつまでもこうしていたいと思う反面、妻子の待つ家に早く帰らなくてはならない、と思っている。その2つの思考が、体を2つに分けてしまったんです。この病気は、精神が2つに分かれた事により、身体が反応し発症するんですよ。そんな時に、運悪く愛人が風邪を引いていたんでしょう。このまま愛人といたいと思っていた右側だけに、風邪がうつったというわけです」
私は、夏前に愛人が風邪を引いていた事を思い出す。
「…そんな事ってあるんですね」
「あなたの場合は女性関係でしたが、上司と部下、嫁と姑、などの板挟みで、発症する場合もあります。《板挟み病》とも称される事もあるぐらいです。ただ、板挟みにあったとしても、発症するケースの方が稀ですがね。発症する者と発症しない者の差はなんなのかまでは、まだ解明されていません」
家に着くと、妻と子供たちが玄関まで出迎えに来てくれた。心配してくれて嬉しく思う反面、私は胸が締め付けられるような気持ちになる。
こんなけったいな風邪にかかったのは、そもそも家族を裏切っていたからなのだ。
私の左半身が、私の右半身を、殴りつけたい衝動にかられるが、何とか抑える。
そんな事を知るよしもない妻と子供たちは、私の顔を見るなり、爆笑した。何故笑ったのか、すぐにピンときた。
原因は私の口元を覆うマスクであろう。普通のマスクではないのだ。
奇病先生から、大真面目に支給されたのは、右側だけにガーゼが付いた特殊なマスク。通常の口と鼻を全部覆うマスクだと、元気はつらつの左半身に風邪がうつってしまう恐れがあるので、こんな変てこなマスクをつける必要があった。
笑われても仕方がない。家族を裏切った罰として、甘んじて受け入れよう。
朝、昼、晩の1日3回分の飲み薬を2週間分出してもらったが、飲み方が少々難儀であった。
身体の右側を下にして横になり、その体勢のまま薬を飲むのだ。横になりながら、薬を水で流し込むのは、なかなかやりづらいものだ。
右側だけに薬が浸透するまで、しばらくはそのままの体勢をキープしなくてはならない。こうする事で、健康な左側に余計な負担をかけずに済むらしい。
ただ、薬代も治療費も、通常の風邪の半分しか掛からなかったのには、驚いた。
夕食は、風邪を引いている右半身を気遣い、妻がお粥を作ってくれた。右半身は食欲が無いから、ちょうど良かったが、左半身は物足りなさがあった。
お粥を食べ終わり、薬が右半身に浸透するのを待ちながら、あの奇病先生が最後に言った言葉を思い出していた。
「余計なお世話かもしれませんが。この病気、一度発症すると、頻繁にぶり返すケースがあるので、早急に身辺整理をなさった方がいいですよ。根源を絶たないと、本当の意味で完治したとはいえませんからね。今回はこの程度で済みましたが、大変な事になる場合もあるのでね。お大事に」
私は横になりながら、ふと想像してしまう。右半身風邪を何度かぶり返したのちに、右半身肺炎を引き起こし、それが益々悪化していき、右半身だけが死んでしまう。
葬式があげられ、祭壇に右半身だけの遺影が飾られ、その前に立つ左半身がワーン、ワーンと泣いている。
「さすがに、考え過ぎか。とにかく、身辺整理をしなくては」
右半身風邪が治り、数日が過ぎたが、いっこうに身辺整理に踏み出せないでいた。それもこれも、私の右半身が愛人と別れたくないようなのだ。
いざ愛人に別れ話を切り出そうとすると、私の右半身がそれを拒むかのように、右側の口を真一文字に閉じて、喋れなくするのだ。
カッとなった私の左半身が、手で強引に口をこじ開けようとするも、右半身に指を噛まれて負傷してしまう。これでは、いっこうに別れられない。
このままでは、近いうちに、右半身風邪がぶり返してしまうかもしれない。何とかしなくては。
そんな懸念を抱えたまま1か月が過ぎた頃。体に異変が起こった。風邪をぶり返したのではなくて、異変が起こったのは、妻の方だ。
「あなたの変な風邪がうつったみたいなのよ」
妻は、ゴホン!ゴホン!ゴホン!と体の左側だけを揺らして咳をした。
私からうつったにしては、時期があきすぎている。
妻も、私と誰かの板挟みになっているのだろうか。妻は、いや、妻の左半身は、その誰かを愛しているのかもしれない。私の左半身に、寒気が走った。
変な風邪・終