3-1海は無いけどヨナはある
文字数 1,766文字
男は見ていた。
見慣れた金属の天井がみしりと裂けて、ねばつく液の球がぶらさがる。ねとぉっと伸びて、伸びて、伸びて……地表に近づく。
男は見ている。
液球は既に頭上1m、ここまで来れば中味も見える。にごった黄褐色のオイルの中で、胎児のように丸まった人間。それも若い女だ。身に着けているのはコート、スカート、ブレザー、ブラウス。ふわふわ広がり液の中、ただようさまはまるで薄羽根。
ぼそりとつぶやくかすれ声。片方の眉がはね上がり、首をかしげる。遠くかすかな記憶をたどる。皺の寄ったまぶたが下がり、また上がる。
続く言葉には明らかに、感情がふくまれている。ついぞ久しく男の口にのぼらなかった心の動き……すなわち、驚き。
ぱっちん!
オイルの球が弾ける。男はあわてて後にさがる。連れの家畜もぽこぽこと、ひづめを鳴らして後ずさり。
球体の中味が落ちる。男の目の前に、びしゃりと落ちる。制服姿のJKが、オイルまみれで横たわる。あいも変わらず胎児のように体を丸め、己の腕で己の肩にしがみついて。
そして胸に抱えたガスマスク。防塵対策とわかっていても、やはり異様な取り合わせ。まぶたは固くとじられて、ひっきりなしにぴくぴくと痙攣している。手が、足が震え、不規則な動きで宙をかきむしる。
男はかがみ、のぞきこむ。
ぼさぼさの眉、白髪交じりの黒い髪、目尻の下がった目の周辺には細かなしわが寄り、頬を経て口元へと続く。身に着けているのは色鮮やかなひし形の模様の毛織りのポンチョ。その下はジャージ、靴は厚底のスニーカー。働く男の顔だった。働く男の手だった。節くれ立った手を伸ばし、少女の目もとにはり付く髪を取りのける。
そのわずかな接触が、目覚めを呼んだ。
びょっくん!
オイルを飛ばしてJKが起きる。手をつかわず、ほとんど背筋と腹筋の力だけで飛び起きる。体が跳ねるほどの勢い!
べべっと家畜がつばを吐く。もふもふした長い首を左右にゆすり、手綱の許す距離まで後ずさり。明らかな警戒!
それでも男は逃げなかった。
がくがく震えるJKに向かい、静かに手をさしのべた。
人の声。言葉。自分以外のだれかとの対話が、混濁した意識を呼び覚ます。
ぱちぱちとまばたきして、JKは男の手を握った。
親指、人さし指、中指、薬指。やや遅れてぎこちなく、小指が曲がる。
男はゆっくりとJKを引き起こす。途中から背中に手をそえて。
問いかけるJKの口調は、舌の回りが若干おぼつかない。まだすっかり目を覚ましていないようだった。男は肩をすくめる。
くんっとJKが空気を嗅ぐ。
男は黙って空を指さす。上からのしかかる金属製の天井。彼女の落ちてきた穴はすでにふさがっていた。JKは口をゆがめて、うつむいて……
嘔吐。長い長い嘔吐。のどから食道、胃まで詰まったにごったオイルを吐き出した。
その間、男はおくゆかしく目をそらせていた。さらに鼻歌をうたって音も消す。細やかな気遣い!
仕上げのひと吐きが収まったのを見計らい、おもむろにハンカチを差し出す。
JKは受け取り、しゃにむに拭いた。ぼどぼどたれる、よだれと鼻水と胃液の混合物を。
本音を言えば『すっきり』にはほど遠い。だが言えばそれだけ気分がよくなる、ような気がする。気休めってのはとどのつまりは気が休まると言うことで、追いつめられた状況ではものすごく偉大で貴重で大事なことなのだ。
男は手綱を引いて、家畜を呼び戻す。ふんふんと不平をもらしながらも、家畜は素直に寄ってきた。