前編 スイカと彼女

文字数 1,973文字

 一学期を締める校長先生の話を聞いている最中、僕は突然の腹痛に襲われた。おそらく原因は昨日食べた西瓜だ。でも西瓜に罪はない。調子に乗って食べ過ぎた自分が悪いのだ。

 このままじゃ耐えられそうもないので、列から離れてトイレに行きたいと担任に伝えた。

 体育館の出口にむかう途中、整列していたクラスの女子がこちらを見てクスクスと笑った。髪をゴムで留めた可愛い眼鏡の子だけど、名前は知らなかった。何故なら僕はクラスの底辺で、普段から女子と関わる機会がなかったから、彼女たちの名前を知らずともなんら支障がなかったのである。

「う、うぅ……」

 静かなトイレの中に、僕の苦悶に満ちた声だけが響いていた。便器にかじりついてだいぶ時間が経つけど下痢はまだ収まらない。夏のトイレはエアコンがなくサウナのように蒸して、僕の体力を容赦なく削った。この調子だと腹痛と暑さで、下半身を晒したまま卒倒するかもしれなかった。

 廊下から足音がして、誰かが入ってくるのがわかった。小学生の頃に同級生から排便を揶揄われた記憶が蘇り、条件反射的に身を潜めてしまう自分が悲しかった。

「中にいるの、太一でしょ?」

「マキ?」

 ドアのむこうから知っている声がして、僕は痛みに耐えながら尋ねた。

「そうだよ。大丈夫?」

 やっぱり間違いない。

 このドアのむこうにいるのは、幼馴染の綾瀬マキだった。

* * *

 幼き日の僕とマキは、家がご近所というだけでいつも一緒に遊んでいた。彼女はいつだって物知りで力も強く、僕を自分の弟のように構ってくれた。

 でも幼少時の僕はお転婆なマキが苦手で、将来はもっと優しい女の子と仲良くなりたいと思っていた。だから親同士が「ちょうど同い年だし、将来は結婚かしらねぇ」と話しているのを聞いた時は本気で嫌がっていたと思う。

 当時の彼女はそんな幼馴染の態度をどんな気持ちで見ていたのか。もしあの時に結婚の約束をしていれば、今のマキとの関係も少しは違っていたのかもしれない。

 年月が流れて思春期に突入すると、心も身体も成長した彼女を少しずつ女性として意識するようになっていた。そしていつの日か、お転婆だった少女は手が届かない高嶺の花へと姿を変えていった。

 同じ公立中学に進学した僕らの間には、絶対に越えられない大きな壁が立ちはだかっていた。彼女は試験を受ければ学年でトップだし、スポーツも万能でマラソン大会では一位でゴールを駆け抜けた。

 一方の自分は下の順位から数えた方が早い成績だったし、マラソン大会では走行中にお腹が痛くなって棄権した。それでも死ぬほど勉強して同じ高校に進学できたのもつかの間。彼女にまつわる恋のうわさが学内の生徒たちに拡散されたことで、僕の片想いは終止符を打った。

 ソフトボール部のレギュラーだったマキのお相手は、サッカー部を全国大会に導いた三年生のキャプテン。学校の裏サイトには美男美女のカップルだと書き込まれ、みんなが面白半分にもてはやした。一方の僕はふてくされてマキを避けるようになり、二人は少しずつ疎遠な関係になっていった。

「ねぇ、大丈夫なの?」

 返事をしなかったせいか、マキが安否の確認をくり返した。どうやら体育館を出ていく姿を見られていたらしい。心配で来てくれたのだろうけど、彼氏がいる彼女に今さら優しくされるのは余計に辛かった。

「ぜんぜん大丈夫じゃないかも」

 とはいえ、相手が幼馴染なので思わず本音が漏れた。

「ひとりでトイレから出られる? ここで待ってようか?」

「平気、ひとりで戻れるから」

 本当は倒れそうだったけど、プライドが邪魔をして意地を張った。

「でも大丈夫じゃないって言ったじゃない」

「いいから出て行ってくれよ。ここ男子トイレだぞ」

「強がってんの? バカみたい」

 怒らせてしまったのか、彼女の足音が遠ざかっていった。せっかくの善意を踏みにじったのだから当然か。でもこれで幼馴染への未練がましい想いを吹っ切れると思った。しかし足音はすぐに戻ってきて、マキがふたたび声をかけてきた。

「あのさ、やっぱり心配だから待ってるよ」

 こんな奴なのに見捨てない。マキの優しさに胸が痛くなった。

「強がってごめんなさい」

「いいよ、別に」

 どうして幼い頃、僕はこんなに素敵な子との結婚を嫌がっていたのだろう。もしタイムマシンがあれば今すぐ当時の自分に会いに行って、あの愚かな考えを改めさせてやるのに。そんなことを考えているうちに、やがて強烈な便意が襲ってきた。

「マキ、悪いけどやっぱり出て行ってくれないかな」

 大好きな子を前に水便を垂れ流したくなくて、仕方なく今の状況を伝えた。それでも彼女は出て行く気配がなく「別に遠慮しないでいいよ」と明るく言い放った。

「そんな無慈悲な……」

 もう我慢の限界。幾度の激流に耐えた太一堤防も、ここにきてついに音を立てて決壊した。










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