第1話 僕と服田さん

文字数 1,849文字

 一九八三年。千葉県のはじっこに大規模なテーマパークが開園し、子どもなら誰でも欲しがる家庭用ゲーム機が発売されたこの年。中学二年の僕は待ちどおしかった夏休みを迎えたはずなのに、普段と代わり映えのない平凡な日々を送っていた。

 今日も電話で友だちと会う約束をして、朝食もとらずに家を出た。待ち合わせ場所はいつも通り駅前の本屋。自転車を漕ぐとすぐに汗が噴き出して、さっき飲んだ麦茶が瞬く間に蒸発した。

 外の気温は三十度。午前中はエアコンが効いた本屋で漫画を立ち読みして、午後からはゲーセンで時間を潰すのがいつものコースだ。ただ今日がいつもと少しだけ違うとすれば、夕方から近所の公園で盆踊りが行われることくらいだった。

 本屋の冷房で身体が冷えた頃、今週発売の漫画雑誌も読み終わったので、河野くんに声をかけて店を出た。ちなみに河野くんは靴屋の息子で、学校指定の上履きや今履いている靴も彼の実家で買ったものだった。

 お昼ご飯を食べに引き返そうと自転車に乗ると、夏らしい恰好をした二人の女子が駅から出てくる姿が見えた。二人ともお揃いのような白いワンピースを着ている。片方は知らない子だけど、麦わら帽子を被っているもうひとりの子は同級生の服田さんだ。

「昼飯食ったら、二時にゲーセンな」

 河野くんが自転車に鍵を挿しながら念を押す。でも僕はすっかり服田さんに気をとられていて、了解の返事がワンテンポだけ遅れた。

「なぁ聞いてるか?」

 河野くんに背中を突つかれて我に返り、「わかってるよ、午後の二時だろ?」と答えて自転車を発進させた。

 前を歩いている彼女たちの背中が近づくにつれて、先頭を走る僕の自転車は徐々に速度を落とした。声をかける勇気はないけれど、ゆっくり追い抜けば服田さんが気づいてくれるかもしれなかった。つまり有り体に言えば、僕は以前から服田さんに好意を持っていた。



* * *

 服田さんは笑顔が似合う、とても可愛らしい子だ。彼女は休み時間に同級生とおしゃべりをしながらよく笑っていた。そんな時は色白な頬がほんのりと赤くなって、僕にはそれがとても美しく見えた。

 夏休みが始まる少し前、男女合同で体育の授業を行う日があった。天井から吊るされたネットで体育館を半分に区切り、男子はバスケットボール、女子はバレーボールの練習をしていた。授業の後半は演習試合となり、控え組の自分たちは間仕切りネットの前で選手を応援していた。

「おれもバレーボールの方が良かったなぁ」

 河野くんが羨ましそうに女子の方を見てぼやいた。バレーボールのコートでは、背の低い服田さんが類まれなる身体能力を活かして、相手のコートに強烈なスパイクを打ちこんだところだった。レシーブで弾かれたボールがこちらに飛んできて、ネット越しで見ていた僕の顔面に激突した。

「おーい窓木、大丈夫かぁ」

 コートの反対側にいた湯沢くんが揶揄い半分で僕の名前を呼んだ。湯沢くんは格闘技のジムに通っていて身体も大きく、たぶん学校で一番喧嘩が強い男子だ。そんな彼には、新しい技を覚えると僕を実験台にする悪しき習慣があった。だけど女子には優しかったから、彼はクラスの人気者だった。

「ご、ごめんなさい!」

 顔を押さえてしゃがみ込む僕の元に、服田さんが慌てて駆け寄ってきた。

「窓木くん、大丈夫だった?」

「打たれ強いので全然平気です……」

 鼻がジンジンしていたけど、やせ我慢をしてそう答えた。それにボールが当たったのは彼女のせいじゃないので、余計な心配をさせたくなかった。

 服田さんは目の前でしゃがみ込むと、僕の手を鼻からそっとよけて顔を覗き込んだ。彼女の方からふわっと甘い香りがして、僕はとたんに照れくさくなった。

「顔が赤くなってるよ。保健室に行こうか?」

「でも酔ってないから大丈夫」

 痛がっているとみっともないので、くだらない冗談を言ってみた。だけど服田さんはきょとんとしていて、意味が伝わっていないみたいだった。

「えっと、今のは『顔が赤いのはお酒を飲んでるからじゃないよ』という冗談のつもりで……」

「ふふっ、窓木くんって面白いね」

 しょうもない冗談でも笑ってくれる。そんな服田さんが天使に見えた。

「窓木、大丈夫か。服田は早く女子の方に戻りなさい」

「じゃあ窓木くん、バスケ頑張ってね」

 体育の教師に促され、彼女はバレーボールのコートに戻って行った。

 こうして服田さんの笑顔を間近で受け取ってしまった僕は、まるで恋の魔法にかけられたかのように、いつの間にか彼女のことが好きになっていた。









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