リデビュー小説賞 座談会 #4
文字数 12,281文字
これまでの話題の続きですが、レーベル、伝奇などのジャンルの復興、SNSでの宣伝、作家の生き残り戦略……
この情報が溢れている時代だからこそ、どれも、刹那的な点での戦略ではなく、継続的な面の戦略がとれるといいな、というのが希望……願望です(笑)
イノクマ編集長、河北編集長、
作家本人の販売戦略など、本来は作家側の自助努力の部分だと思いつつ質問させてもらったのですが、お答えいただいてありがとうございます。
作家ができる範囲の販売努力や生き残りというのは難しいですよね。
過去に多々開催してきたNOVEL DAYS座談会では、クリエイターが生き残る方法がテーマの柱になっている座談会がいくつもあったのですが、個別具体的にはさまざまな方法が語られてきました。
そのなかで大きな部分としては、身も蓋もない話で恐縮なのですが、自分が生き残っていることを主張し続けるという当たり前のことだったのかなと思います。
方法はいくらでもあって、イノクマ編集長がご指摘されたように書く仕事を続けることで生存をアピールするということは十分あるのかなと思います。ただ最近は兼業が基本でしょうから(ぼくも兼業ですし)、なかなか文筆だけに生活を集中させていくことも難しいのは確かです。
そんななかにあっては、すでに語られたSNSとか、個人ブログとかを通して、編集者さんがコンタクト可能な窓口だけは絶やさず持っておくということが必要そうです。もちろん編集側がコンタクトしようと思ったときに引かれるほど妙な思想とかを主張されていたら困るでしょうけれども、普通の範囲で活動しておくのは必要なのかなと思います。地が控えめにできるブログにメールフォームを付けておくのは地味ながらオススメかもしれません。
自分の経験になってしまいますが少しよろしいでしょうか。
ぼくは講談社文芸第三出身ですけれども、実際のところデビューしたレーベルではまったくといっていいほど売れませんでした。それも当たり前で、宣伝もなく、定価も1400円くらいで、部数も当時のデビューとしては少ない6000だったので、売れる可能性なんてなかったんですよね。ここで書けないことも色々ありました。当時のレーベルでデビューしてそこで売れた人はいないものと思います。数名が他に移動することでようやく作家活動を継続している人がいるのかなというくらいでしょうか。
ただ、自分の場合には、まったく売れもしていないときに、小学館の編集さんがなぜか声をかけてくれたんですよ。なんとなく簡易ブログ作ってメールフォームを置いていただけで、ブログには当たり障りない数記事くらいしか書いていなかったように思います。そこからすぐシリーズが決まって作家として続けられているんですが、いま思えば何の気なしに自分の窓口を作っておいたことは、ささやかですが一つのキッカケになっていたのかもしれません。
実はもっと強く言いたいのは、デビューして売れなかった多くのプロの方々の本も、あなたの本を読んでくださっている編集者比率というのは意外と高いのかなと思います。部数が出なかったからこそ、ますます読者における編集者比率は高まっていっているはずです。
編集者にもいろいろなタイプがいますから、そうした形での出会いもあり、あなたの本であなたにコンタクトしてみたいと思った編集者さんが、心理的にコンタクトしやすい形をとっておくのは必要かなと思うのです。コンタクトの心理的ハードルを下げておかないと、編集者も忙しいので、忘れられてしまうかもしれませんよ。
目先すぐにコンタクトがあるとは限りません。1年後とか3年後という可能性もあるでしょう。自分もそうした経験あります。そんなときに作家としての活動をしているということをアピールしておくことは、少しでもチャンスをつなげていくために、面倒がらずに実施しておくべきことの一つかなと思います。
投稿サイトで読者に奉仕し続ける形で書籍化を狙う方法も今のところメジャーでしょう。
過去には本サイトにて小説家になろう座談会を開催し、小説家になろうでメジャーな実績を残している作家の方々と座談会を行いました。
『WEB作家でプロになる!: ①書籍化の方程式』
『WEB作家でプロになる!: ②パッケで9割の法則』
というタイトルで電子書籍化されているので、ぜひ興味があればご自身で探して手に取ってほしいのですが(非常に刺激的で面白いですし作家側だけでなく編集者側にとっても目から鱗の内容が詰まった本です)、小説家になろう上位ランカーになるには、読者に徹底的に奉仕する姿勢が必要なことを思い知らされました。書き手の方々は「精神的ポルノを書いているのだ」と仰っていましたが、正鵠を射ている言葉だと思います。作家性を捨て、作家を続けるためだけに、毎日なろう読者の望む原稿をひたすら量産し続けることです。そこでは誰も作家なんて見てくれません、ひたすら目の前の原稿が、なろう読者の望むものになってくれているかどうかです。
それは今ひとつのメジャーな路線です。
一方で、業なのか信念なのか勘違いなのかわかりませんが、自分の作家性が前提で原稿に向かいたいという人は、自分の本に何かを感じ取ってくれるかもしれない編集者がいる可能性を信じて、ささやかに窓口を維持し、作家を続ける意思があることをアピールすることなのかなと感じています。河北編集長が「講談社タイガが目指す方向の一つとして、作家性・作家買い」という言葉を信じて作家性を求めてみたいなら、編集者との良い出会いに賭けるしかありません。
もちろんリデビュー小説賞などを通して編集者が自分を見出してくれることは、これ以上にないほど良い出会いになるでしょうね。
あとはこうした座談会などでちょくちょく顔を出してもらうことも無駄ではないのかなと思われ、だから皆さんに投稿作のリンクを貼ったらどうかと促してみました。この座談会は講談社に限らず、各社の小説部門の編集者が気になって目を通してくれている可能性は高めの場だと思います。
こんな偉そうに語ってはいますが、僕自身、作家さんに不義理やご迷惑をおかけしたことも多々あるので……至道さんの仰るように、作家さんにとっての魅力的な編集者を目指したいです。
ご返信が一つ抜けていましたね。講談社タイガは、ライト文芸的ではないものが多いので、参考になるかどうかわかりませんが、他社さんはやはり女性比重が高いものが多そうです。それよりは講談社タイガは男性比率が高いですね。年齢層は20代~30代が中心ですが、これも作品によります。(あまり参考にならないですね。すいません 汗)
河北編集長、猪熊編集長。
質問に答えていただきありがとうございます。
私自身、西尾維新先生や佐藤友哉先生の作品の影響を強く受けていて、
どうしてもダークな作品が多いです(笑)
リデビュー小説賞には、挑戦した作品を投稿したいと思います。
ううむ……どうお返事したものでしょうか。
レーベルのコンセプト……は、ジャンルであらわされるものではなく、たとえば、「小説好きのためのレーベル」であったり、「十年後も読まれ続けている作品」であったり、メフィスト賞のように「最先端、他にない独創性のある物語」ですが、それでは他レーベルとの差別化にはならないでしょうか。
リデビュー小説賞でも、そういう作品を待ち望んでいます。
皆さんが仰っているのは、それをもっと言語化・具体化すると、どういうものか、ですよね。
すいません、もうちょっと違う表現を考えてみますので、宿題とさせてください!
「講談社ラノベ文庫」は「ラノベの王道を往く正統派ラノベレーベル」を謳って出発しました。今現在もそれは変わってはいません。具体的な作品傾向、ということの前に、ラノベというジャンルに皆さんが期待するもの、ラノベだからこそ読める作品を生み出し、送り出していきたい、そんな意気込みというか覚悟みたいなところが、もっともコンセプトに近い考えなのではと思っております。結果的に尖るのは構わないのですが、尖るために尖る、といったことはそれほど求めないでいきたいとは思っております。
——というと「作家性を塗りつぶして、作品よりも商品を求めている」と思われるかもしれませんが、個人的には、作家性とは「出すもの」ではなく「滲み出るもの」だと考えております。どんなものを書こうとも、これまで書き手のみなさんが培ってきた、ひと、というものへのまなざしやら、生きる、ということへの立ち向かい方が必ず滲み出るはずなのです。流行を追い、人気のジャンルに手を出す、時代と寝る、みたいなことと、作家性は両立するものなのではないかと思うのです。
そういうラベリングは賛否ありましょうが、読者としてはやはり印象的でしたし、この括りで出た作品なら、初めての作家でも自分の好みに合う可能性が高いだろうという安心感がありました。
もちろん、素晴らしい小説がまずあって、それを基点に何かムーブメントが起こるものですけれど、ムーブメントは意識して起こすものでもあるのかな……
「個人的には、今の時代に、こんなムードの小説を世に問いたい」というような指向(嗜好?)を、ざっくばらんに聞かせていただけたら私も嬉しいです。ジャンルを問わず広く門戸を開いているご立場では、個人の感想とはいえ、口にしにくいかもしれませんが……
ぼくからもまた質問よろしいでしょうか。
賞の質問というより編集者全般のことになってしまいますが、貴重な機会でもありますので。
(1)編集者は楽しいですか?
子供っぽい質問ですみません。ちょっと大袈裟に聞こえるかもですが、生まれ変わっても編集者になりたいですか。
(2)クリエイター側になりたいと思ったことありますか?
小説家でも漫画家でもアニメーターでも何でもいいのですが、ご自身が創作側に回ることを目指した時期があったりしたことあるものですかね。
(3)これからの編集者像
出版業界にとって、今は生存の危機を問われる過渡期かなと思います。危急存亡の秋といっても何ら誇大表現ではないでしょう。そんななかにあって、これからの編集者とはどうあるべきでしょうか。
そろそろ質問などできるのは最後のタイミングになるかもです。
まだ質問したりないことなどありましたら、遠慮なく投げておいてください。
BLで何冊か本を出していただいております。
現在は別ジャンルにチャレンジすべく励んでいるところです。
皆さまの質問やご意見、興味深く拝見しておりました。
なかなか書き込めませんでしたが、自作の紹介だけでもという至道先生のお言葉に甘えてご挨拶に伺いました。
リデビュー小説賞には『変身なんてしたくない』という変身ヒーローもので参加させていただいております。
賞への応募作ではありませんが『ハーブガーデンはいつも雨上がり』を公開しております。
ひとつ質問というか雑談的な感じですが、少しだけ。
皆さまはどの程度、読者層を意識されていらっしゃるのでしょうか。
各レーベルで読者層のリサーチなどをなさっているかと思いますが、差し支えなければ教えていただけるとうれしいです。
わたしの場合は、自分と似た嗜好の方が必ずいるはずだという無謀かつ無根拠な信念で書いているのが現状です。
しかし、どこへ向けて書いているのかと不安になることが度々あります。
自分の書いているものは好きだし、価値があると信じている。だけど、一体それはどこに届くのか、どこに届けるべきなのかと考えてしまいます。
好きなものを書いているとはいえ、届けることが目的ですので、やはり読者像というのは意識しておきたいところです。
ご意見をいただければ幸いです。
はじめまして。
ファミ通文庫から「愛原そよぎのなやみごと」という作品を出している雪瀬ひうろというものです。
早速ですが二つ質問させてください。
一つは、ラノベにおいて「パロディ」を使ったコメディ作品は編集部視点で、忌避されるのかということです。
パロディの度合いや元の作品に対するリスペクトがあるのかなどによっても変わると思いますが、パロディを使った作品は、「トラブル」を招く例もあると思います。具体的な書名は避けますが、「パロディ」の元になった作品のファンから攻撃を受けて、「炎上」していた本もあったと思います。
そういった例も踏まえて、編集部からすれば、たとえ面白くても「パロディ」を取り扱っているから、という理由で作品が忌避された例はあるのでしょうか。
もう一つは、ラノベにおける主人公についてです。
一昔前は主人公は「男子高校生」というのが不文律で、「女性」であったり「中年」が主人公という作品は一部をのぞいて、流行らなかったイメージですが、今は「おじさん」主人公の作品も増えてきていると感じています。しかし、それでも、まだ「ラノベの主人公は少年」といった風潮はまだあると思います。
そこで質問ですが、「面白いが主人公設定が売れ線でない」という理由で、ボツになった作品などはあるのでしょうか。
質問は以上二点です。よろしくお願いいたします。
リデビュー小説賞応募作
今の時代に、どんな小説をもって世に問いたいか、と申しますと――
やはり「読者の背中を押してあげられるような作品」が読みたいなあと思います。
教室に居場所がないなあ、と思っていそうな読者が、読んでみたら「ああ、今いるところは元から自分のいるべき場所であって、そのことはむしろ素晴らしいことなんだ!」とか「友達が少ない!? 友達っていうのはつくるものじゃなくて、できるものなんだ……できるまでまって現れたヤツが真の友達なんだ!」とか、「クラスで下の方にいるだって……下から見るからいろんな真実がみえてくるのかもしれないぞ」とか例示がうまくできないのでお恥ずかしいのですが、読んでみて勇気が出るというか、自分の現状を肯定できるようになるというか、そういった読後感を得られるようなお話が読んでみたいですね。
(1)編集って、結局形のない正解を追い求める作業なのだと思います。それゆえ、作家さん、漫画家さんとあーでもないこーでもないとやりとりを行って、「コレが正解なのでは!?」とその時点での最高の形を追求していくわけでして、実際にその時点で最高の形ができあがったり、せめて正解と思われる道筋が脳裏に浮かんだときは、すーっとするというか、脳内麻薬でも出ているのかなという爽快な気分になることがあります。もちろん結果がでれば最高ですが、結果がでなくてがっかり、これは数限りなくありましたし、これからもあることでしょう。
とにかく理想の形を追求する作業に終わりはないと思っています。それゆえ作業を通じて快感を得るのも、編集という役割に従事しているかぎり続くんだろうなと。
生まれ変わっても編集者になりたいかというと……そうですねえ、生まれ変わったときに編集者という仕事があったとしたら、どうでしょう? 前世の記憶がなかったら、やろうと思うかもしれません。最高の何かを追い求める仕事をしたいですね。というと職人とか研究者になっているかもしれませんね。
>読者層を意識されていらっしゃるのでしょうか。
ぼくのケースは参考にならないと感じていますが、一応。
ぼくの場合は読者さんのことは意識していないですね。編集さんとのやり取りが、ぼくの作家業のすべてです。ぼくから外に出た原稿については気にしないし、外の意見や感想なども目に触れることはないし、どんなイラストを付けて頂いても、どんな扱いになっていても、とくに気にしません。
これは作家業における信念などという高尚なものではなくて、単に他の仕事が多忙だし充実しているという事情によるのかなと思います。
ぼくはたぶん売れない小説家の範疇だと自認しています。資本や経営や政治などリアル方面を書くので、小説に癒しや現実逃避を求められる読者が大半を占めるようになってきた昨今においては、最も嫌われるタイプの作家であろうことも自認しています。
ただ、このような姿勢であっても不思議と編集さんからの執筆依頼が途切れたことはないし、ちょくちょく色々な声がかかります。これから出版業がどう変転したとしても、自分がその気になれば小説(ビジネス書や実用書も)を商業で発表できる場所はどこかあるんだろうなという根拠なき実感はあります。
今は他が多忙のため原稿に向かう時間がまったく取れていませんが、意識としては書こうと思えばその日から書けるし、案件の一つとして引き続き請け負っていけるだろうとも感じています。
恥ずかしいことだと思いつつもどうでもいいぼくの例を出したのは、作家には3つの系統があると考えていまして、ぼくはそのうちの1つの極端な事例かなと考えるからです。
(1)過去のメジャー作家の系統
これは言うまでもなく、出版華やかなりし頃にブランドを確立し、作家として高い地位を確保できているメジャー作家さんの系統です。もちろん新しい人も出ていますけれども、過去に比べたら明らかに(1)の系統として台頭するのは難しくなっているでしょうね。
(2)なろう書籍化の系統
いま最も主流の系統は、先にも共有した通り、なろう投稿(+ネット投稿全般)からデビューに繋がる書籍化作家さんですね。なろう読者は作家など誰も見ていないので、その場その場でなろう読者を満足させていく大量執筆能力が問われます。作家買いなどは今後も期待できないので、立ち止まったときが試合終了です。
これも先に共有した通り、なろう座談会においてトップ作家陣に登場してもらったのですが、明快にご自身らの状況を把握しておられました。いま苦難の現実の前にいる読者の方々に対して、少しでも辛い現実から目をそらせるための方法を提供するために、なろう読者が望むままの精神的ポルノを提供してあげるのです。これはぼくの言葉ではなく、優秀なその書き手の方々の生のお話です。プロ作家さんにとっても編集者さんにとっても必ず参考になるので、ぜひ以下を手に取ってみてください。出版社から出すのは難しい内容でもありますから電子化してすぐ出しました。
『WEB作家でプロになる!: ①書籍化の方程式』
『WEB作家でプロになる!: ②パッケで9割の法則』
最近は編集さんですらなろうの現実を知らずになろうの話を語る方がとても多くなってきました。編集不要論はそうした敵情分析をまったくしない編集さんが現実に多々いるからこそ根強く出てくる話だと思われます。
(3)作家性の系統
この系統の極端な一つがぼくのケースだと思っています。(※最近は読解力のない方が多いので念のため書いておきますが、1ミクロンすら誇っているわけではないです)
大して売れていないのになぜか生き残っていたり、なぜか本がちょくちょく出ている人は、大なり小なりこのケースに当てはまるのだろうと思います。何か別の方面での知名度があったり、人間全体が面白かったり奇妙だったり、玄人に超うけるタイプの原稿を書いたり、ひとくくりにできませんが「作家性」という言葉に集約してしまっていいのかなと思います。
作家性というものを否定したがる方もいらっしゃいますが、実のところ作家性などという言葉には明確に定義できるものなどないので(定義できた瞬間にその作家性は作家性でなくなっている可能性があります)、そんなに躍起になって否定せず、作家性という不可思議な存在を笑って受け流す大らかさがあっていいのかなと思います。
上記3つの系統があって、この他は(直截的な表現で申し訳ないのですがどうか誤解のないように)あらゆる意味で売れない作家さんなのかなと思います。
ただし、プロになるハードルは低くなっているといえどもやはり全体としては少数ですし、プロの実績もあるわけですから、疑いようもなく文筆の実力はあるはずです。ここからステップアップできるとしたらいきなり(1)は難しいので、やはり現時点では(2)か(3)の方面に進行するしかないのではないかと考えるところです。
ただし、新人賞・小説賞の受賞は、(1)に行ける可能性がある切符が手に入るということでもあります。色々な新人賞も、リデビュー新人賞も、(1)への切符です。
そして手前味噌に聞こえるかもしれませんが、今回のリデビュー新人賞は(1)の切符は比較的大きめのものになるのではないかと感じます。その理由は、リデビュー新人賞は広告予算などゼロだったにもかかわらず一定程度バズったということは、それだけ賞自体の注目度が高いということの裏返しでもあるからです。また同時に、比較的数字だけを追求しない講談社編集者との強いつながりも手に入りますので(3)も確保できる可能性があるということでありましょう。
また、作家として長生きするということではなく、とにかく書籍化を達成していきたいという方は(2)がよろしいのかなと思います。その際は、ぜひ上述2冊に目を通してもらえさえすれば、基本的な敵情視察ができ、戦う準備も完了します。
どこまでも原稿を書き続けなくてはならない大変さはありますが、手っ取り早い手段かもしれません。
とはいえネット事情というのは、風向きが変わったときはすでに決着がついています。小説家になろうへの風向きも突然変わることは予想されますし、ちょっと前までがバブルだっただけであり、人間世界のあらゆる相場と一緒のことで、明日の事情はわかりませんね。
ここで詰まらない結論になってしまいますけれども、いずれのプロの方も、やはり他に手に職を付けておくということが良いのかなと考えます。そして出来うれば、そちらの職種があなた様の(3)を確立する手段とリンクしてくれれば、尚のこと結構なのではないかと思うところです。
(2)これは不思議と言っていいほどないのです……ただ、「ものをつくる」ということには関わりたいとは思っていました。30年以上前、ものをつくる、という仕事として、自分がイメージしていたのは、レコード、音楽をつくるディレクターみたいな職業でした……その一方で、漫画や小説の編集者になりたいと思ったことは全くないのです。なんというか、仕事のイメージが全くわかなかったからですが。
小説にしても、漫画にしても何にしても、創作物をつくりだす、ということにはとんでもないエネルギーが必要です。だからこそ人生を懸けて創作に挑んでいるクリエイターのみなさんにはいつも尊敬の念を抱いているつもりです。
イノクマ編集長、ありがとうございます。
>だからこそ人生を懸けて創作に挑んでいるクリエイターのみなさんにはいつも尊敬の念を抱いている
これはプロの側であるぼくも、他のクリエイターの方々に対して素直に感じますね。
人はなぜ創作をするんだろうという哲学にも通じます。
前に座談会でお話したあるクリエイターの方は、「宇宙に自分たった一人しか存在していなかったら創作はしない、なぜなら創作はコミュニケーションのためだから」と言いました。
自分の存在意義を残すためという人もいるでしょう。生活の糧のためという人もいるでしょう。
ぼくの創作する理由は皆さまにお伝えしませんが、ぼくにはぼくなりに思うところがあってやっています。
人それぞれ色々な理由があると思いますし、そのすべてが正解です。
ただ、クリエイターの道は辛くて長いし、ほとんどの場合には割にも合わないので、皆さまも今一度お考えになってみるよい機会なのではないでしょうか。
(3)についてですが、これまでの「編集者」と「編集者のやること」としてひとくくりになっていたことが、分離していくのではと思っています。これからの編集者は今よりもさらに「どうやって売るか」「どんな手段で存在をしってもらうか」ということにより注力せざるを得なくなってくると思います。結果として
――編集者の持つ側面のうちの「プロデューサー」「商売人」「仕掛け人」といった部分に特化した人が、編集者のパブリックイメージの代表のようになるのではと考えています。マスコミ受けもしやすいですし。
この流れとは反対ですが、「才能をもっている(もっていそうに感じる人」を「育成」し「その人が本当に描くべきことは何なのか?」をともに追求していくという役割、教育者みたいな部分もやはり大切なのではと思います。
優先されるべきことが何なのだろうか、という点で分かれていく編集者像のなかで、自分はどちらかといえば後者を選びたいと思います。会社にとっては迷惑なのかもしれませんが、ベースとなる部分できちんと人を育てるということをしなくては――たとえすぐさま結果、商業的な利益をもたらさないとしてもですが――ものの作り手の絶対数が減ってしまい、最終的には何の利益も世を潤す才能もいなくなってしまうことになるわけですから。
いやいや、それを許容してくれるのが講談社という出版社なのだと思います。
出版業のかつてない転換点だからこそ講談社には役割があります。
お答えありがとうございました。
読者層、気になるのはとてもよくわかります。でも「読者」について考えると、いつの間にか自分が「こうあってほしいな」という、自分にとって都合のよい読者を勝手に思い描いてしまったりしがちなのではと思います。可能であるかはさておき、具体的な、友人知人親戚の子など、自分がよく知る実際の人物を《仮想読者》にして「その人がよろこぶかどうか」というように置き換えてみた方がよりイメージしやすいのではと。
パロディについてですが、一般論としては、国際的な禁忌、宗教、差別表現について扱わないかぎり、面白いかどうかだけが使っていいか、やめるかの判断基準になると思います。パロディだからやめよう、というようには簡単に判断はできませんし、ぎりぎりだろうけれど、面白かったらやってみたいな、という誘惑に勝つのは並大抵のことではありません。
また、ラノベでは主人公は少年に限られる、としてきましたが、それは少年「読者」に向けてつくるからではなく、少年の「魂」や「永遠の少年心」に向けてつくるからです。キャラクターの魂が「少年」であればガワの部分が中年のおじさんでもいいのですが、少年に等しい純粋さみたいなものがあった方が共感できるのではと思います……ただ、こちらも結局は「面白ければなんでもアリ」なのです。定石を知ったうえで、それ以上のおもしろさを発している作品であればたいていの常識は打ち破れるはずだと考えています。
そちらで、のちほどいただいたご質問など、お返事させていただきますね。
ご回答ありがとうございました。
二つの質問の解答の共通項は「面白い」かどうかに収束するようで安心しました。
特に少年主人公が多い理由については、勉強になりました。
>キャラクターの魂が「少年」であればガワの部分が中年のおじさんでもいいのですが、少年に等しい純粋さみたいなものがあった方が共感できるのではと思います
という部分は大いに納得できました。
改めて、ありがとうございました。