ヤンゴン①  「奪われた花とヒアリ」

文字数 2,862文字

 ミャンマーへは、タイ経由の飛行機で向かった。
 着陸寸前で、きれいなCAさんが紫と白のランの花をプレゼントしてくれた。どうやら、女性客に配られるものであったらしい。
 ヤンゴンの空港は、駅舎のような古めかしさがあったが、どこか懐かしさもある外観、内装だった。(現在のヤンゴン国際空港は、当時の面影もなく近代的な空港らしい空港に生まれ変わっている)
 とはいえ空港を見わたすことよりも私は、機内でもらったランの花に心を奪われていたため、ひたすら右手で花の茎をくるくると回しながら手元ばかり見ていた。
 出口まで来ると、スターの出待ちかなにかをしているのかと勘繰りたくなるほど大勢の人が集まっていた。私はその熱気に気圧され、スッと兄のうしろに隠れて歩いた。当たり前だが、右を見ても左を見ても日本人の姿はない。
 ふと、10歳にも満たない女の子がしきりに私の手元を見つめていた。 私は「これ?」とランを握っていた手を上げると、瞬時にその子は私の手から真っ先にランを奪って颯爽と消えてしまった。
 あまりにも素早い芸当だったので、目の前で何が起こったのか理解するのに時間がかかった。
 先を歩いていた兄を急いで追いかけて、
「ねぇ、お花取られちゃったよ!」と泣きつくと、
「みんな(したた)かだから気を付けて」とあっさりとした返答。
 兄はすでに何度もミャンマーに来たことがある。初心者の私と違って、現地の人たちの突飛な行動には慣れていたのだろう。

 ミャンマーの首都ヤンゴンの空港から外に出ると、すでに陽は沈み、12月にもかかわらず生暖かい空気が漂っていた。
 旅慣れしていた兄は迷いのない歩行で、即座にタクシー乗り場へと向かう。
 そこには、ひと昔前に日本の道路で普通に見かけた日本車がずらりと並んでいた。
 いったいいまは何年だ?
 そんなことを考えているあいだにも兄は一足先にタクシーに乗り込もうとしていたので急いで追いかけた。
 兄は助手席、私は後部座席に座った。
 窓外を流れゆく景色に早速私は、カルチャーショックを受けた。
 心もとない街灯の下で、歩道を埋め尽くすように現地の人々が食事をしていたのだ。
 小麦肌をしたミャンマー人のきょろきょろとした目が闇夜にいくつも浮かびあがって見えて、私はどぎまぎした。
 街灯の光が弱すぎたのか、それとも彼らの顔立ちが日本人よりも彫りが深かったためか。
 これまで日本人がいない世界へと飛び込んだことがなかったので、想像すらできなかったこの状況に頭も心も追いつけていなかったのだろう。
 さらにいえば、空港での一件をまだ引きずってもいた。子どもに花を奪われるという体験は、いままでのほほんと生きてきた私にとってはあまりにも強烈過ぎた。

 どれくらいタクシーに揺られていただろう。
 すでに私は別のことで気を揉んでいた。
 日本人が外国でタクシーに乗ると値段を不当に吊り上げられる、という話が脳裏をよぎったのだ。
 運転手が日本語をどこまで理解できるのかわからなかったので、助手席に座っていた兄にそのことについて注意をうながす術はなかった。
 そんな不安を抱えながら無言で外の景色を眺めていると、インドのタージ・マハルのようなフォルムをした金ぴかの建物が目に留まった。兄と運転手も、その建物を指さしながら短い英語で会話をしていた。
 そうこうしているうちに、タクシーは目的地へと到着した。
 兄はにこやかな表情で運転手と値段交渉を始めた。
 首を振ったり、口を歪めたり、失笑したり……。
 タクシーを降りると兄は、
「強気に出ないといっぱい持ってかれるわ」
 と苦笑いした。
 やはり、外国でタクシーを利用するときは油断禁物のようだ。

 ホテルに着くと、白のカーディガンにミャンマーの民族衣装ロンジー(巻きロングスカート)を着たミミさんという支配人の若い女性が盛大に出迎えてくれた。
 ミミさんは、日本人とあまり変わりない容姿だったこともあって勝手に親近感を覚えた。
 兄とはかなり親しいようで(兄はちゃっかりしている)、久しぶりの再会に喜びあっている様子だった。
 そのあいだ私はロビーを隅から隅まで見渡した。
 真っ先に目を奪われたのは、ソファーの横に飾られていたちいさなクリスマスツリーだ。黄、赤、青、緑、青、色とりどりのライトが点滅していた。
 ミャンマーに降り立ったこの日は、確かに12月25日ではあったが、国民の大多数が仏教徒だと聞いていたので、まさかミャンマーでクリスマスツリーが見られるとは思わなかった。
 ミミさんは兄のうしろで挙動不審な私の姿に気づくと、英語で「初めまして」「妹さんに会いたかったの」「旅行楽しんでね」と柔らかな声で話しかけてくれた。
 空港からずっとひとりで抱えていた不安は、彼女のそうした心配りによってわずかに取り除かれた。

 その後、二階の部屋を案内されてやっと重たい荷物を肩から下ろすことができた。
 兄は真っ先に地図を広げて明日の予定を立て始めたので、先に私がお風呂に入ることになった。
 シャワールームは思ったよりも広かったが、不安定なライトに照らされた床をなにげに見下ろした瞬間、全身が凍りついた。危うく建物の外まで響くほどの悲鳴をあげそうになった。
 なぜか?
 私の足元に真っ赤な蟻の大群が蠢いていたのだ。
 改めていまネットで虫の名前を調べると、な、な、なんと!
 "ヒアリ"だった可能性が高い。
 見た目の気色悪さだけでなく、人に危害までも与える害虫だ。
 テントウムシや蝶ですら道端で出くわせば「ビクッ」として怯える性分だというのに、よりによっていちばん自分が無防備なときに大群で押し寄せてきたのだからパニックになって当然だ。
 とっさに私はつま先立ちになり、日本から持参したシャンプーを素早く取り出して猛スピードで髪を洗った。
 ところが、最悪なことにシャワーヘッドから水がちょろちょろとしか出てこないときた。
 もはや、泣き出したい気分だった。
 それでも、この状況を自力で打破しなければならない。
 私はシャワーの水で、わらわらと足下に集まってくるヒアリの大群を必死に追い払いながら、なんとか髪と体を洗い終えた。

 入浴後、赤い蟻の大発生について兄に対し大いに文句をいったが、「水で追い払えばいいよ」と返してきただけでまともに取り合ってくれなかった。
 この国で頼れるのは兄ただひとりという過酷な状況の中で、精神的大ダメージを受けた妹にそっけない態度をとる兄。
 思わず私は、「来なければよかった」と暴言を吐いてしまった。兄は怒ると無口になるタイプだったが、珍しくこのときは口論に発展。
 消灯後、布団の中で私は「いますぐ日本に帰りたい日本に帰りたい!」という言葉を30回は心の中で繰り返したと思う。もちろんその願いは叶わなかったが、思ったより疲れていたようで、幸いすぐに眠ることができた。
 翌朝、もぞもぞと起きて兄の顔を見たとき、私の怒りは不思議と消え去っていた。
「おはよう」と背伸びしながらいうと、兄もまた「おはよう」と短く返してきた。
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