マンダレー④ 「古井戸とハエの大群」

文字数 1,540文字

 また別の日は、二軒のお宅にお邪魔した。
 一軒目は、兄がこの旅の途中で親しくなったミャンマー人の戸建てだ。
 下町にある中華店のような雰囲気の室内。
 庭のほうへ行くと古井戸と丸いテーブルがあった。
 家族なのか、親戚なのか、はたまた友人なのか見分けがつかなかったが、7、8人のミャンマー人が和気あいあいと卓を囲んでいた。
 ここでも見知らぬ訪問者に対する嫌悪感はみじんもなく、私と兄が座る場所を率先して用意してくれた。
 テーブルの上には、ゆでたり焼いたりしたものと見られる色とりどりの野菜と小皿がいくつも並んでいた。
 小皿にはだいたい油にまみれた香辛料が浮いており、見ているだけで舌が痺れてきそうな赤色をしていた。
「多分、かなり辛いと思うから、つけるとしてもちょっとだけにしときな」
 私はその忠告を軽んじ、ほうれん草らしき野菜を自分の皿に運んでから、赤い油まみれのタレにどっぷり浸してから口に入れた。
 思ったより辛くないなと思い、また野菜をそのタレにつけようとしたときだった。口から炎が吹き出そうなほどの辛さが迫ってきた。
 慌てて手近にあったコップを引き寄せ、ぬるめの水を喉奥に流し込んだ。
 そのとき兄が、「それはあんまり飲まない方が良いよ」と笑顔で私のコップを制した。
 あくまで笑顔なのは周囲の目があったからに他ならない。
「え? 何?」
 私は飲みかけのグラスを持ち上げたまま兄を睨んだ。私の口の中は、大火事真っ只中でそれどころではない。
 すると、兄は首を素早く庭の奥のほうへと振ってみせた。私は兄の視線の先を凝視した。
 そこには、古井戸があった。村上春樹氏の小説に出てきそうな井戸だった。
「多分、お腹壊すよ……」
 香辛料の効いた料理をスプーンですくいながら兄が小声でいった。
 私は数秒間、黙考。
 結局、開き直り、ふたたびその水をごくごくと勢いよく飲みこんだ。
 細やかな対応をしてくれるミャンマーの人たちは、私のグラスが空っぽになったことを知るとすぐに井戸から水をくんできてくれた。
 私はノーサンキューといえない日本人だ。
 とにかくあのときは、「あとで日本から持ってきた胃腸薬を必ず飲もう」という言葉だけが私のメンタルの助けとなった。
 しかし、いまあのシチュエーションに出くわすことがあったら間違いなく私は、兄の忠告に素直に従って出された水にはいっさい口をつけなかっただろう。
 幸いあのあと、お腹を壊すことはなかったが、きっと「たまたま」だったに違いない。

 実はこのほかにも食事中に困ったことが起きた。
 地獄列車でも書いたが、ひと一倍虫が苦手な私。
 ここのお宅では、大きなハエがしきりに十匹以上は旋回していた。
 ミャンマーの人たちとの会話中も、食事中も、顔面に、耳元に、手元に、ハエ、ハエ、ハエ……。
 しかし、彼女たちは顔面から半径10センチ以内に飛び回るハエに対してまるで無関心だ。
 兄もまたそれほど気にかけていない様子だった。
 まさに孤軍奮闘。
 私ひとりだけがハエを避けるためにいちいち首を左右に動かすわけにもいかず……とはいえ、我慢にも限界があったのでとっさに私は独自のルールを作った。
 顔面にピタッとハエが止まったそのときは、遠慮なしに首を振ろう。それ以外は、じっと我慢だ。
 このときばかりは、日本語とミャンマー語で互いに会話できず良かったと思った。そうでなければ、話に集中できずもっと無礼を働くことになっただろう。
 なかなか試練の多い食事会ではあったが、やはり飲んだり食べたりする時間を共有すると、たとえ言語の壁があれど心の距離はグッと縮まるものだ。
 その証拠に、彼女たちと出会ってすぐに撮った集合写真よりも、帰り際に並んで撮った写真のほうがみんなの表情はずっと柔らかかった。
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