マンダレー⑤ 「タナカと大学閉鎖」
文字数 1,473文字
次は、大学に通うミャンマー人女性のお宅に招かれたときのこと。
ここで私は現地のお化粧を初体験した。
「こっちこっち」と、手招きされ隣の部屋へ。
やや緊張した面持ちで膝に両手をのせた私に、その女性は終始ニコニコしながら両頬にタナカを塗ってくれた。
この"タナカ"とは、田中さんではなく、木の名前だ。タナカの原料で作られたパウダーは、うすい黄土色のようなもので、日焼け止めの効果も期待できるらしい。
記憶はおぼろげだが、確かゴマをすり鉢でするようにタナカを液状にしてから私の頬に塗ってくれたっけ。
すぐに皮膚に張り付いて固まる感覚があった。
お化粧が終わると、リビングでおしゃべりをしているほかの女の子たちのもとへ移動。
私が現われた瞬間、彼女たちの表情が一瞬にして明るくなった。その場で跳ね上がる子までいた。
「仲間だね」「同じだね」「似合うね」
日本語でも英語でもないのに、私には彼女たちの言葉の意味を汲み取ることができた。
相手の国の文化に飛び込むということが、どれだけ相手の心を動かすものなのか、私はそのとき身を持って実感した。
その後、普段の生活について兄からの質問に律義に答える彼女たち。学校で使用しているという教科書を気前よく何冊も見せてくれた。
「ちゃんとした内容だねぇ」
ざっくばらんな兄の分析。
もっとないのかよーと、内心でツッコム。
一方私は、「万国共通の数字ってすごいよなぁ」と、兄と五十歩百歩の感想。
さらによく見ると、ページのすきまには計算式の書き込みがいくつもあり、それを指しながら「真面目に取り組んでてすごいねぇ」という思いを込めながら目の周りの筋肉を使って伝えた。彼女は私の目を見て謙虚な笑みを見せた。
その後、「今は大学お休みなの?」と兄が素朴な質問を口にしたとたん、それまで和やかだった空気が一変した。
彼女たちの表情も瞬時に曇った。
軍事政権が敷かれているミャンマーでは、1988年の民主化運動を先導する役割を担った大学生らがキャンパスに集まらないようたびたび大学の閉鎖を行っていたのだ。
当時の私には、いや、いまだ信じられない忌々しき事態だ。
「授業はいつ再開されるの?」
兄伝えで質問してもらうと、やるせない顔で小首をかしげられた。
誰もわからないという。
しかし、すぐに彼女たちは屈託ない笑みを取り戻し、なぜか話題は兄の顔がミャンマーの人気俳優に似ているというおかしな方向へ。
しかもひとりの女の子が、その俳優の生写真を取りにわざわざ自宅へ帰ったのだから驚きだ。
走って戻ってきた彼女が、ケタケタと笑いながらその生写真をみんなに披露した。
生写真、兄、生写真、兄に視線を向けたのち、破顔一笑。
似てる?似てる!似てない?似てない!
現地の人たちとの他愛のないおしゃべりは、とても楽しいひとときだった。
むろん、もっともっと私自身、英語やミャンマー語が堪能なら良いのにと恨めしく感じる瞬間も多々あったが、互いの目を見て笑い合うことでも絆は十分に深めることができた。
だからこそ、日数的に滞在期間が短かったものの、マンダレーを離れるのが本当に辛くて辛くてたまらなかった。
いまならば、SNSのアカウントやメールアドレスを気軽に交換できたかもしれない。でも、あのときはそういう手段はなかった。
誰も口には出さなかったが、今生の別れとなるだろうことは目に見えていた。
帰途、兄とは一言も言葉を交わさなかった。
わいわい賑わっていた時間が、おそろしく昔のことのように感じられた。
なにも寂しいのは私だけじゃなかったのだ。
ここで私は現地のお化粧を初体験した。
「こっちこっち」と、手招きされ隣の部屋へ。
やや緊張した面持ちで膝に両手をのせた私に、その女性は終始ニコニコしながら両頬にタナカを塗ってくれた。
この"タナカ"とは、田中さんではなく、木の名前だ。タナカの原料で作られたパウダーは、うすい黄土色のようなもので、日焼け止めの効果も期待できるらしい。
記憶はおぼろげだが、確かゴマをすり鉢でするようにタナカを液状にしてから私の頬に塗ってくれたっけ。
すぐに皮膚に張り付いて固まる感覚があった。
お化粧が終わると、リビングでおしゃべりをしているほかの女の子たちのもとへ移動。
私が現われた瞬間、彼女たちの表情が一瞬にして明るくなった。その場で跳ね上がる子までいた。
「仲間だね」「同じだね」「似合うね」
日本語でも英語でもないのに、私には彼女たちの言葉の意味を汲み取ることができた。
相手の国の文化に飛び込むということが、どれだけ相手の心を動かすものなのか、私はそのとき身を持って実感した。
その後、普段の生活について兄からの質問に律義に答える彼女たち。学校で使用しているという教科書を気前よく何冊も見せてくれた。
「ちゃんとした内容だねぇ」
ざっくばらんな兄の分析。
もっとないのかよーと、内心でツッコム。
一方私は、「万国共通の数字ってすごいよなぁ」と、兄と五十歩百歩の感想。
さらによく見ると、ページのすきまには計算式の書き込みがいくつもあり、それを指しながら「真面目に取り組んでてすごいねぇ」という思いを込めながら目の周りの筋肉を使って伝えた。彼女は私の目を見て謙虚な笑みを見せた。
その後、「今は大学お休みなの?」と兄が素朴な質問を口にしたとたん、それまで和やかだった空気が一変した。
彼女たちの表情も瞬時に曇った。
軍事政権が敷かれているミャンマーでは、1988年の民主化運動を先導する役割を担った大学生らがキャンパスに集まらないようたびたび大学の閉鎖を行っていたのだ。
当時の私には、いや、いまだ信じられない忌々しき事態だ。
「授業はいつ再開されるの?」
兄伝えで質問してもらうと、やるせない顔で小首をかしげられた。
誰もわからないという。
しかし、すぐに彼女たちは屈託ない笑みを取り戻し、なぜか話題は兄の顔がミャンマーの人気俳優に似ているというおかしな方向へ。
しかもひとりの女の子が、その俳優の生写真を取りにわざわざ自宅へ帰ったのだから驚きだ。
走って戻ってきた彼女が、ケタケタと笑いながらその生写真をみんなに披露した。
生写真、兄、生写真、兄に視線を向けたのち、破顔一笑。
似てる?似てる!似てない?似てない!
現地の人たちとの他愛のないおしゃべりは、とても楽しいひとときだった。
むろん、もっともっと私自身、英語やミャンマー語が堪能なら良いのにと恨めしく感じる瞬間も多々あったが、互いの目を見て笑い合うことでも絆は十分に深めることができた。
だからこそ、日数的に滞在期間が短かったものの、マンダレーを離れるのが本当に辛くて辛くてたまらなかった。
いまならば、SNSのアカウントやメールアドレスを気軽に交換できたかもしれない。でも、あのときはそういう手段はなかった。
誰も口には出さなかったが、今生の別れとなるだろうことは目に見えていた。
帰途、兄とは一言も言葉を交わさなかった。
わいわい賑わっていた時間が、おそろしく昔のことのように感じられた。
なにも寂しいのは私だけじゃなかったのだ。