絶体絶命

文字数 2,425文字


 どうしても母の顔を思い出すことができない。

 キヨは、村を出てから一度も、母の顔を瞼に浮かべたことはなかった。浮かべることができないのだ。

 戸を閉める、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手。

 別れを惜しむどころか、手放すのが当然だといわんばかりの口調。

 一人になると、それだけが思い出されてならなかった。


 華子のことを想い、華子の名を呟くことで、それから逃れようとしていた。


 いつしかそれは努力ではなくなり――。

 いつしか華子は大切な人になっていた。



「いや、離して! 離してください!」

 地下室。

 窓ひとつない、黄色い電燈が灯るその部屋に、悲痛な叫びが響き渡る。キヨだ。

「潔子ちゃん、君は華子のことが好きだと言ったじゃないか。華子の為なら何でもすると、言ったじゃないか」

「言いました、でも、」

「でもじゃない! 華子の病気には、子供の生肝(いきぎも)が一番の薬なんだ。如月さんが教えてくれた。あの人はもう何人も、華子と同じ病気の子供を治してきたそうだ。だから間違いないんだよ」

「でも、でも死ぬのはいやです!」

「大丈夫、肝を取るまでは殺さないよ。生肝じゃないと薬にはならないんだからね」

「いやあ!」

 キヨは自分を掴んでいる、都路の手を引っ掻いた。その爪は短い。三日に一回、華子はキヨの爪を切る。

「あ、こいつめ!」

 哀れ、キヨは都路に突き倒され、冷たい混凝土(コンクリート)の床に投げ出された。

 鼻の奥に刺さるような異臭。鼻血が出たのかと思ったが、違う。

 どうやら、これは床から臭ってくるようだ。よく見れば、一面に、どす黒い染みが広がっている。

「如月さんが上手くやってくれるから、大丈夫だよ。きっとそんなに痛くないよ。あの人は名手なんだ」

「いやです、やめて、都路様、」
「君は嘘つきなのかッ、ええ?」
 キヨの言葉を(さえぎ)り、都路は足を踏み鳴らす。
「いいえ、いいえ……そんなこと、ありません」

 健気にもキヨは、この場においても華子への気持ちを諦めることはない。

 都路の大きな足が、床に乱れたキヨの髪をガツガツとにじる。鼻先からは、ほんの三寸も離れていない。

 キィ。

 扉が開き、パタパタという草履の足音。

「すっかりお待たせしたわ」
 床の異臭と、汗と白粉の混じった不潔な臭いが交わった。
「如月さん、遅かったじゃないか」

 都路は地団太を止める。その口調には、甘えているような含意(がんい)があった。

 如月は乱れた髪を整えるような仕草を見せ、(わざ)とらしく襟元を掻き合せる。

「ホホホホ、ちょっとごたごたをね、もう一安心よ……あら、何で服を脱がせてないのよ」
 如月は、床に横たわるキヨを見るなり、都路を(なじ)る。
「だって、この子、暴れるんだ。酷いもんだよ、まるで山猿だ」

 手の甲に浮かぶ蚯蚓腫(みみずば)れを示しながら、都路は鼻声で口答えをする。

「暴れるったって、たかが知れてるだろう。何だい、その図体(ずうたい)で。その服は次の子にも使うんだ。汚してもらっちゃ困るんだよ。ほら、いいから早く台に乗せな」

「ごめんよ、ちゃんとやるから、そんなに叱らないでおくれよ」

 都路は肩を(すく)めると、キヨを部屋の中央にある金属でできた長方形の台に持ち上げ、腰掛させた。

「――っ」

 キヨの太腿(ふともも)に、痛みに似た感覚。床も大概(たいがい)冷えていたが、台の上は、更に、氷のようだ。

 その台は滑らかな金属でできていた。形は(てーぶる)だが、それとして使うには、いささか大きすぎるし、高さもあった。

 キヨは不安な思いで、辺りを見回す。


 ――妙なものがあった。


 突起だ。

 台と同じ金属製で、半円形をしている。

 目線をずらす。

 反対側の端にも、同じものが。

 首を巡らす。

 やはり同じものが。

 四方に一つづつ、それがある。

「何してるんだい、足だけ()めるんだよ。バンザイさせて脱がせりゃいいんだからさ」

 キヨは悟った。

 その突起は――(かせ)だ!

「!!」
「わ、こら、暴れるな」
「いやああああああああああ!」
 キヨの口から、渾身(こんしん)の悲鳴。
「黙れ黙れ、は、華子に聞こえてしまう。――ねぇ、如月さん、手伝っておくれよぅ」
「あー、もう、ほんッとうに役立たずだね、お前は」

 如月が歩み寄ってきた、そのとき。

 フッと、電灯が消えた。

「ああっ?」
 都路の間抜けな声が、暗闇に溶ける。
「いちいち情けないね、停電だよ。何だい、こんなときに。……蝋燭(ろうそく)があったろう?」
「ここにはないよ。居間の方にしか」
「あー、もう! 気が利かないったら、ありャあしない」

 甲高い悪態と共に、パタパタと草履の足音が遠ざかる。キィと扉の音、空気の動くぶわっとした気配。如月は、そのまま階段を昇っていったようだった。

 (きし)みは一回のみ。

 どうやら、扉は開け放しのままらしい。

「ああ、弱ったぞ。如月さんを怒らせてしまった。これじゃ、華子が助からないかもしれない」

 嘆く都路。衣擦(きぬず)れの音。またも手足をばたつかせているのだろうか。

 キヨは、この隙に逃げるべきか逡巡(しゅんじゅん)した。

 

 ――華子様を、助けたい。

 それは本心だった。

 生肝を取られるのは、もちろん嫌だ。

 痛いに決まっているし、怖いし、何より、自分は死んでしまう。


 ――きっと、わたしの側にいてね。

 自分の死を華子が望むわけはないと、キヨは信じる。

 だが――生肝を薬として、華子が健康になれるのが本当だとしたら。

 友達なら、替えは利く。

 薬なら……?

 キヨは、小さく頭を振った。


 ――指切りげんまん。

 華子がそれを望むわけはないと、キヨは信じる。

 都路は、何やらブツブツと()り言を呟いている。

 逃げるなら、今だ。

 尻を浮かせる。

 突然、湿った土の匂い。

「――ひっ」
 温かく平たいものに口元を覆われ、キヨは息を飲む。
「シッ」
 キヨの耳元に、軽い吐息と、
「静かに。――助けに来たぞ」

 黒衣の青年の囁き声が。

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登場人物紹介

キヨ

山村に生まれ育った少女。

母ひとり子ひとりの暮らしだったが、ある朝突然、それは終わりを告げることになる。

華子

都路のひとり娘。

生まれつき病弱で学校に通うことが出来ないが、寂しい境遇に負けることのない芯の強い少女。

如月

おそろしく背の高い、身なりの派手な女。

一見にこやかで上品だが、どこか蓮っ葉な雰囲気が拭えない。

都路

華子の父。

華子を溺愛している。娘の病気を治すためなら、なんでもする。

黒衣の青年

一風変わった風貌の、皮肉めいた顔つきの青年。

青毛の姿のいい馬と行動をともにしている。

赤ら顔の男。

よく日に焼けた、赤ら顔の気のいいおじさん。警察のそこそこ偉い人。

キヨと華子を保護する。黒衣の青年とは因縁のある仲のようだ。

おかみさん。

赤ら顔のおじさんの、奥さん。子供がいないことを、ずっと寂しく思っていた。

キヨと華子が家に家にいることを、心底嬉しく思っている。


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