拐われたキヨ

文字数 1,721文字

(なん)ばするとね!」

 腕ごと胴を抱え込まれたキヨは、頭と足とを精一杯ばたつかせて抵抗した。髪を振り乱し、上体を揺すり抜け出ようともがくが、青年の腕はびくともしない。

「助けて、華子さま!」

 自力ではろくに歩くこともできない、華子を呼んで何になろう。承知のことながら、キヨはその名を叫ぶ。

「だから、助けてやってるんじゃないか」
 キヨの頭上から、不機嫌そうな声が降ってきた。ハッと、キヨは上を向く。
「詳しい話は後だ。急がないと」
「いやばい! 華子様ンとこに(かえ)さんね」
「静かにしてくれ。ナナオは、うるさいのが嫌いなんだ」

 青年は空いている方の手の、人差し指と中指を真っ直ぐに立て、唇に押し当てた。

 甲高(かんだか)い音が、鬱蒼(うっそう)とした森に響き渡る。

 指笛だ。

 そして一声、大きく叫ぶ。

「ナナオ!」

 途端、ザザザと下生(したば)えを踏みしだく音。

 ヒンと軽く(いな)きつつ、真っ黒い姿の良い馬が、ぬぅと現れた。

「よし、いい子だ」

 青年は愛馬を撫でて(ねぎら)うと、キヨを抱えたまま片手に体重を預け、ひらりとその背に飛び乗った。

 (あぶみ)や鞍どころか手綱(たづな)すら着けていない、完全な裸馬。

「暴れるなよ。落ちたら怪我(けが)をするからな」

 そしてキヨを膝の上に座らせる。

 ――高い。

 キヨは、思わず青年の胸にしがみ付く。

「そうだな、そうやって捕まっているといい、……ナナオ、進め」

 青年が呼ばわり、軽く(くび)辺りを叩くと、青毛の馬は歩き始めた。

「森に隠れながらの方が都合がいいけど、時間が掛かり過ぎるからな。途中で道に出て、走る。できるだけ早く、安全なところに連れて行ってやるよ」

「いや、いやばい、いや! 華子様ンとこに帰さんね」
「こら、バカ、暴れるなと言っただろう
 青年は、キヨを支える腕に力を込める。
「安全なところに着いたら、全部話してやる。とにかく一刻でも早くここを離れよう」
「いや、いや、いやて言いよろがッ。助けて」
「……だから、助けてるんだ」

 意味の通らぬ言葉の訳を、問い質す(すべ)がキヨにはない。少女の嘆きも虚しく、ナナオの規則正しい足並みに、運ばれて行くのであった。 



「もう道に出るぞ。ここから先は、地面が柔らかすぎるからな」

 青年の黒い上着を掴んだまま、キヨは前方に目を()った。泣き疲れ、叫び疲れて、その口からは嗚咽(おえつ)が漏れるだけだった。

 木々の隙間が大きく口を開けている場所を、青年は示す。その部分に生えた草が、軒並み押し潰されたようになっていた。

 きっと何度も、青年と馬はここを通り抜けたに違いない。

 ――ふと、ここは青年と馬を最初に見た、あの場所ではないかとキヨは心付く。

「お腹が空いただろう。もう少し我慢――うわッ?」

 突然、青年が頓狂(とんきょう)な声を上げた。

 前方を注視していたキヨも、大口を開ける。

 ドグアッという、かつて聞いたことのない音。四角い大きな何かが木々をかすめ、出口たる間隙(かんげき)(ふさ)ぐ。


 ヒヒーン!


 キヨの耳元で、脳天に突き刺さるような、鋭い(いなな)き。

 耳を塞ぐ()などない。ぐぅんと身体が持ち上がった。またも昇降機を思い出し、キヨは固く目を閉じた。

 驚いたナナオが、後ろ足で棒立ちになったのだ。

 ずり落ちそうになるのを、青年の腕がかろうじて(とど)め――いや、その土台たる彼も姿勢を崩し、ぐらり。

 今度こそ、キヨは身体が空中に放り出されるのを感じた。

 一回転。

 次に来るだろう衝撃を、覚悟する。


 だが、

 

 トン、

 

 という、軽い振動がきただけだ。

 安堵。顎の力が抜け、ハッと息を吐く。

 恐る恐る目を開けると、視界は真っ黒だった。少し頭を引く。銀色の丸いものが見えた。(せん)の、夜空に浮かぶ満月を、キヨは想った。

 あの青年の上着だと、理解するのに数瞬掛かかる。改めて、彼の片腕にしっかりと抱きかかえられていることに、キヨは気付いた。

「――やあ、相変わらず派手好きだな」

 青年が、口火を切った。

 その声音の冷たいことよ。

「アタシによく似合うでしょ」
「!!」
 ホホホという馴染みの嬌声(きょうせい)に、キヨはガバと振り返る。
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登場人物紹介

キヨ

山村に生まれ育った少女。

母ひとり子ひとりの暮らしだったが、ある朝突然、それは終わりを告げることになる。

華子

都路のひとり娘。

生まれつき病弱で学校に通うことが出来ないが、寂しい境遇に負けることのない芯の強い少女。

如月

おそろしく背の高い、身なりの派手な女。

一見にこやかで上品だが、どこか蓮っ葉な雰囲気が拭えない。

都路

華子の父。

華子を溺愛している。娘の病気を治すためなら、なんでもする。

黒衣の青年

一風変わった風貌の、皮肉めいた顔つきの青年。

青毛の姿のいい馬と行動をともにしている。

赤ら顔の男。

よく日に焼けた、赤ら顔の気のいいおじさん。警察のそこそこ偉い人。

キヨと華子を保護する。黒衣の青年とは因縁のある仲のようだ。

おかみさん。

赤ら顔のおじさんの、奥さん。子供がいないことを、ずっと寂しく思っていた。

キヨと華子が家に家にいることを、心底嬉しく思っている。


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