二人は、森から一歩出た道の端に待機している。
制服の警官が、毛布に包まれた華子を抱えて、玄関から出てきたのが見えた。
感極まったキヨは、遅れ馳せながら華子の教えを思い出す。
黒衣の青年に深々と頭を下げた。
そして、恥ずかしさを懸命に堪え、お辞儀をしたまま言葉を続ける。
「さっきはごめんなさい! わたしのせいで、酷い目に……痛かったでしょう」
「だけど、うまくいったぞ。あいつはすっかり騙されて、ボクを車に乗せてくれたじゃないか」
キヨは勢い良く、姿勢を戻した。と、その拍子に蹌踉けてしまう。
青年は喉を擦りながら、快活に笑った。
「そういえばお互い、名乗ってもいなかったな。だけど、キミの名前は知ってるぞ。林田キヨちゃんだろ」
「あの、わたし、真名井潔子だって、如月さんが……」
「キミは、間違いなく林田キヨちゃんだ。ボクが調べたんだぞ。間違いはない」
きょとんとしたキヨに、青年は戯けたように胸を張ってみせる。
「――あ、待って、この字は判る。滋養の滋でしょう」
「へぇ、よく知ってるな。ボクのとは読み方が違うけど。これは――父様が付けてくれた名前なんだ」
「わぁ、素敵ね。――あのね、この字は華子様が教えてくれたのよ」
近付いてくるエンジン音。
二人は顔を上げた。
青年は棒切れを捨てて、道へと出る。
手を振って、自動車の前に立ち塞がった。
急ブレーキ。
「やあじゃない。お前、こんなとこにいたのか。探したぞ」
助手席の窓から顔を出したのは、腕を振り回していた背広服の男だった。壮年で、厳つい赤ら顔をしている。
「ふん、さっきは随分とのんびりだったな。お勤めご苦労さん」
「詳しい話は、このキヨちゃんから訊いてくれ。その、後ろに乗ってる華子ちゃんの、妹さんに当たる子だ」
キヨは、車を覗き込む。
後部座席に横になった華子がいた。隣に座る制服の警官が、その頭を支えている。
「妹ぉ? ウソつけ。この子はあいつの一人娘だぞ。まぁしかし、その子は今度のアレなんだろ? ……お嬢ちゃん、辛いだろうけどいろいろ話を聞かせてくれるかい?」
「難しいことじゃないぞ。このキヨちゃんと華子ちゃんを、絶対に離れ離れにしないと約束してくれ」
キヨが、弾かれたように青年を見遣る。次に赤ら顔の男を。そして祈るように両手を組んで、深呼吸した。
「そりゃ、出来んことはないだろうが、この子の身元は?」
ギョロリと目を向けられ、キヨは怯みそうになる。しかし、負けじと見つめ返す。
「他の子達と同じ、天涯孤独だ。それはボクが保証する。面倒な事にはならない」
「わ、わたしは、華子様の妹です! 妹になりました。どうか、華子様と一緒にいさせてください」
キヨは瞬きもせずにそう言うと、腰を二つに曲げて、赤ら顔の男に向かい、深く深くお辞儀をした。
「あ、ああ。判った判った。大丈夫だ。いや、こいつが言うからじゃないぞ。あんたは大事な証人だ」
「頼んだぞ。ボクはちゃんと見ているからな。万が一、その子たちを別離れさせようものなら、あんたの手柄がボクの仕事だというネタを、新聞記者の溜まり場に持っていくぞ」
青年は一息に言うと、挑戦的な目で男を睨んだ。
男は、赤銅色の鼻柱をくしゃくしゃにして、応じる。
「勘弁してくれ、俺はアイツらが嫌いなんだ。約束は守るさ。……おい、キヨちゃんとやら。後ろに乗んなさい。こっからは山道だからな、揺れが酷い。お姉さんに膝枕してやっとくれ」
キヨは、あたふたと車に乗り込んだ。一連の流れを微笑ましく感じていた制服の警官が、いそいそと場所を譲る。
キヨは、そっと華子に呼びかけながら、その小さな頭を膝に乗せた。
黒衣の青年は、身を翻す。
キヨは慌てて目で追った。
青年は、ひらり、ナナオに跨った。
キヨの瞳から、涙が溢れた。
それが華子の頬に、一滴。
華子の浮腫んだ瞼が、二、三度、震えて――ゆっくりと開く。
「華子お姉様、わたしはキヨです。今日からキヨと呼んでくださいね」
華子は少し不思議そうな顔をしたが、キヨのその言葉に頷くと、柔らかく微笑んだ。
「さあ、キヨちゃん、車を出すぞ。早くお姉ちゃんを病院に連れてかないと」
車窓より見える、景色。
その何処にも、もう、黒衣の青年と青毛の馬の姿はなかった。