怪しき黒衣の青年

文字数 1,440文字



 案内されたキヨの部屋は、華子の部屋から、この二階で一番遠く離れた階段の脇だった。

 シンとした空気。

 少し肌寒かった。

 慣れない洋装を一人で()いて、寝台の上に用意してあった寝巻に着替える。作りはワンピースと同じだったので、さほど困らずに済んだ。

 身体は疲れていたが、床に就く気にはならなかった。

 今朝方からの出来事が、ぐるぐると頭を巡る。


 朝日が反射する我が家の天井、驚く程に大きな女、紅白粉、賑わう麓の町、汽笛、自動車、洋館、洋装の紳士、つるつる滑る白い風呂場、洋服、嘘のような鏡の中の自分、階段の端に溜まる綿埃――そして薄緑色の頬の、気の毒なお姫様。


 何故か母の顔だけは現れない。戸を閉める、引っ掻き傷の跡が目立つ、赤く荒れた手だけが繰り返し浮ぶ。

 幻視しつつ、同時に己の伸びた爪を眺めた。


 カーテンを開け放したままの窓から、強い月明かりが入り込んでいる。

 キヨは、それに引かれるように窓辺に立ち、華子のことに想いを馳せた。

 何も知らない、何もできない田舎娘であることの自覚くらい、幼いキヨにも、ちゃんとある。それなのに華子は受け入れてくれた。あの笑顔――芝居やキヨへの慰めではないことは、疑いようもない。

「華子様……」

 キヨの、我知らず握った拳。伸びた爪が、掌に食い込む。

 華子の側でよい友達、いっそ妹になろうと、キヨはその拳を薄い胸に当てて誓った。

 さすがに冷えてきた。キヨは、カーテンを閉めようと顔を上げる。
「!?」
 ――何か動いた。

 裏庭に面したこの窓からは、館を囲む森をも見下ろすようになっている。キヨはそれと当たりを付け、庭と森の境目付近に目を凝らす。そこには、大人の胸程の高さの生垣がある。

 その向こうに、黒い馬がいた。

 満月の(もと)、毛並みを光らせた美しい馬だ。

 途端、キヨの記憶が弾けた。

 ここに来る途中の森に(たたず)んでいた――あの馬だ!

 では、青年は。

 キヨは窓を開こうとしたが、それは()め殺しだった。仕方なく硝子(がらす)に額を押し付け、凝視する。


 馬の(かたわ)らから、ほの白い人間の顔が現れた。

 月光に照らされる、柔らかな輪郭。

「――」
 あの、青年だ。

 キヨがそこにいることなど先刻承知といったふうで、片頬で笑いながら、挑戦的な目付きをまともに寄越している。

 キヨは()じることなく見返した。

 青年は間違いなく不審な人物で、本来ならこれは至急都路に告げなければならない事態だ。

 しかし、キヨはそれをしなかった。思い付きもしなかった。


 月下(げっか)

 

 その馬も青年も(おぼろ)ろに輝き、まるで――お伽噺のようだったからだ。


 両目はしっかりと開いている、だけど夢の中の出来事だと思う……、キヨは、そんな矛盾した感覚に翻弄(ほんろう)されていた。


 青年の髪は長く、耳を隠すようにして(うなじ)で一つに束ねられていた。夜目にも際立つ、隈取(くまど)られたように描線のはっきりとした両眼、皮肉そうな口元。身体によく合った漆黒の上着には、銀色の(ぼたん)

 黒い毛並みの馬と、黒づくめの青年。

 昼間といい、今といい、キヨとの邂逅(かいこう)に何らかの意味があることは間違いない。しかしキヨには、心当たりはなかった。

 その意味を考えることも、なかった。

 ただ、(いたずら)に見惚れていただけである。

「……」
「――」

 (しば)し見詰め合った(のち)、現れたときとは逆をいき、青年はその身を隠し、青毛の馬も闇に溶けて消えた。




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登場人物紹介

キヨ

山村に生まれ育った少女。

母ひとり子ひとりの暮らしだったが、ある朝突然、それは終わりを告げることになる。

華子

都路のひとり娘。

生まれつき病弱で学校に通うことが出来ないが、寂しい境遇に負けることのない芯の強い少女。

如月

おそろしく背の高い、身なりの派手な女。

一見にこやかで上品だが、どこか蓮っ葉な雰囲気が拭えない。

都路

華子の父。

華子を溺愛している。娘の病気を治すためなら、なんでもする。

黒衣の青年

一風変わった風貌の、皮肉めいた顔つきの青年。

青毛の姿のいい馬と行動をともにしている。

赤ら顔の男。

よく日に焼けた、赤ら顔の気のいいおじさん。警察のそこそこ偉い人。

キヨと華子を保護する。黒衣の青年とは因縁のある仲のようだ。

おかみさん。

赤ら顔のおじさんの、奥さん。子供がいないことを、ずっと寂しく思っていた。

キヨと華子が家に家にいることを、心底嬉しく思っている。


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