母との別れ
文字数 2,769文字
――お
キヨは記憶を巡らせる。
いつが最初だっただろう。
――夜中に目が覚めたとき、母が隣に寝ていなかったのは。
――夜中に目が覚めたとき、母が
――夜中に目が覚めたとき、母が――母が――。
キヨの気管が、ひゅっと鳴った。
反射的に喉元に
見れば、爪が伸びている。
どうして――こんなに爪が伸びているんだろう。
寒い。
まだ冬には少し間があるが、山間部のこと、空腹を抱えた幼い子供には辛い気温。キヨは、部屋の片隅で布団に
そこに、
と、声。
戸を叩きも開けもせず、ただ呼ばわる女
キヨの胸に、嫌な予感が下りてくる。
母親が無言で戸を開いた。流れ込む、冷えた空気が頬を打つ。
立っていたのは、見知らぬ女だ。驚く程に背が高い。
青みがかった白い着物姿が、
母親は万事承知といった様子で、女と連れ立ち、外へ行く。
キヨはその足音を耳で追い、壁に張り付いた。辺りを
だが、
その一言だけは、はっきりと聞き取れた。
当然、母の声ではなかった。
キヨは頷き、嘘つき、という言葉を飲み込んだ。
母親は、引っ掻き傷の跡が目立つ、荒れた赤い手でピシャリと戸を閉める。ガサゴソと、鍵替わりの心張り棒を
身一つで、キヨは残された。
女がその手をしっかりと握り、歩き出す。子供には辛いような早足。
村を出るまで、誰とも擦れ違わず、声をかけられることもなかった。ただ一人、井戸端から、キヨも見知った年寄りが、歩み行く二人を不審そうに見遣る。
これぞ青天の
キヨは母親と離れ、慣れ親しんだ村を後にする。見知らぬ女に手を取られ、ひたすら脚を動かしている。
そこに意思などない。
涙さえ出ない。悲しさとか憤りとか、この場に相応しい感情が湧いてこない。
足元がふわふわとしている。まるで雲を踏んでいるかのようだ。
まさか今更、馬に乗るなんてできやァしないし――愚痴のように
――綺麗だと、キヨは思った。
キヨが母親と暮らしていたのは小さな貧しい山村で、そこに至る道も細く険しかった。到底、このような
女の言葉は〈普通〉とは違う。だが、キヨはこの言葉に馴染みがあった。
――〈東京弁〉。
母と二人だけの内緒の言葉だ。
今はもう昔――かつて母親は、キヨが寝入るまで枕元で童話を語ってくれていた。
母親は、普段は村人と同じようにここの方言を使ったが、キヨと二人のとき――特にお話をしてくれるときだけは、違った。
……東京弁よ、誰にも内緒。母さんとキヨだけの、秘密――と。
女の話す言葉は、それと同じものだ。母とこの女の関係が気になるが、口にすることができない。
東京が何処にあるのかさっぱり判らないが、とても遠くにあることだけは知っていた。
「あちらに着いたら、お姫様のお傍に
キヨは、呆然と
――まさか、東京に?
問いたかったが、どうしても唇が動かなかった。
女は言葉通りに、麓の町から車を使った。
鉄道の駅があるその町でも、女の格好は際立って贅沢だ。大柄なせいもあり、恐ろしく目立つ。
そんな彼女が、
駅前には数台の自動車が停まっていたが、女は迷うことなく、その内の一台にキヨと共に乗り込んだ。
そして女は、ピタリと黙った。
流れ行く景色。
ごたごたとした町並みを抜け、山道へと進む。
キヨの知らない、道。
初めての自動車に、浮つく気持ちなど欠片もない。
母を恋う気持ちも湧かなかった。
女は
眠気も感じないキヨは、ぼんやりと眼球に景色を映していた――その折。
黒い影が車窓を
道の脇の、木々の隙間に青毛の馬が。
村にいた農耕馬とは全く違う、細い、姿のいい馬だ。
薄暗い背景に、ほの白い顔。片頬で笑うような表情。挑戦的な目付き。
その眼差しが、ス、と動き、キヨの視線を
だが、それも一瞬。
彼らは後方へと流れ去る。