第1条 Souvenir 思い出の人

文字数 1,474文字

“開廷中”のランプが消えた法廷を、出て、静かに扉を閉める。
 よし、今日も大丈夫そうだ。上手くいく。
 弁護士の(やしろ)の習慣は、開廷前の誰もいない法廷内で公判進行のイメージトレーニングをすることだ。
 まだ開廷まで40分近くあるので、裁判所に隣接する公園をぐるっと一周しようか……などと考えながら静まり返った廊下を歩いていると、前方から誰かが歩いてくる気配を感じたので社は挨拶しようと顔を上げた。
「社先生」
それは、記憶の底に眠っていた懐かしい声だった。
 そして、目の前には、懐かしい顔。
「お久しぶりです」
目の前の人物は、社との再会を全く懐かしんでいないのか、忘れてしまっているのか、
「公判の打ち合わせですが、こちら側は『傷害致死罪』で求刑予定ですので。では」
早口で切り上げて、くるりと踵を返し、足早に去って行こうとする。
 司法修習生のときは、ビートルズのポール・マッカートニーのように短かった髪が、まさしくポニーテールが結えるくらいの長さになっているが、間違いなく同期の縦縞だった。
 相変わらずのツンデレぶりだな――。
「ひーまわーりちゃん♫」
 どんどん遠のいて小さくなっていく縦縞の後を、社は軽くスキップしながら追いかける。
 縦縞と社は、司法修習生時代に知り合った。
 友達でも恋人でもない、あまり綺麗とは言い難い関係だった。
 そのことを、綺麗さっぱり忘れたようなふりをするのは何故だ。
 あんなに、情熱的に「好きかもしれない」なんて言ってくれたのに。
 縦縞に追いついた社は、検事の馬の尻尾さながらのポニーテールをぐいと引っ張った。
「きゃあっーー」
 引っ張られたことにびっくりした縦縞が悲鳴を上げる。
 検事になってから様変わりしてしまった縦縞の前に、社は踊り出た。
「どうしてそんなによそよそしいのですか」
酷く不機嫌な顔の立嶋は、社を軽蔑するように睨みつける。
「まるで知り合いのような口ぶりですね」
 検事のつり目がさらにつる。
「だって、現に私たち、知り合いだったからね。あ、今も知り合いだね。ひまわりちゃん、司法修習の後半から急によそよそしくなったね。どうして?」
「……なんのことでしょうか」
 声が低く、いやにトゲトゲしい。
機嫌悪し! という感じだ。
「これから、公判前にひと息つきたくて裁判所前の公園をぐるっと一周するんですけど、縦縞検事もご一緒にいかがですか?」
「私は忙しいのです」
「自販機しかないけど、奢りますよ」
「弁護士のくせに話が通じないんですね。ストーカー規制法で訴えられたいのですか?」
「ストーカー?? わたしが??」
 社のわざとらしい反応に対して縦縞は、被告人を弾劾する時のように冷静で、冷淡である。
「他に誰がいると思うの?」
「おやおや。そちらこそ法曹として、意識が甘いのでは」
 縦縞は私的な顔からすぐさま検事の顔になった。
「ストーカー行為等の規制等に関する法律、第2条その1、つきまとい、待ち伏せし、進路に立ちふさがり……どう考えてもストーカー規制法の構成要件に当てはまりますよね?」
 刺々しい声音の縦縞に対しても、社はひるまない。
 それどころか。
「乙1号証。特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的でつきまとってはいないですよ」
「いい加減にして」
 社から顔を背け、肩を抱くその姿は傍目に見れば確かに社に付き纏われて嫌気が差し恐怖を覚えているように見えるが。
「やっと思い出しましたか?」
 社の問いかけに対し、縦縞検事はーー。
 顔を赤らめて、頷いた。
「……少しだけなら」
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