2. 2019年3月2日(土)⑥

文字数 3,214文字

 さて、ここいらで話題を変えようか、と丸多は考えた。おうちのダックスフンドの具合は良くなりましたか?
 いや、北原が今日送ってきたメールで犬について触れていたとはいえ、いきなり犬の話題を振るのもどうかしている。そもそもここで、北原が飼っている犬の話を広げる気にならない。何にせよ、今日は事件の話題は切り上げ、次回に持ち越した方がいいだろうか。

 丸多が不毛な思案を巡らしていると、北原が語り始めた。その口調はたどたどしかったが、これまでとは違う「覚悟の発露」とも言えそうな、微かな力強さを帯びていた。

「いえ、いいんです。丸多さんのことはもう十分信頼してます。事件当日の動画データはきっとあいつらが持ってます。東京スプレッドが」
「東京スプレッドと」北原さんは近しい間柄なんですか、と訊こうと丸多は口を開きかけた。
 しかし、北原が喋りやめないため、また口を閉ざし、その珍しい饒舌(じょうぜつ)に耳を傾けることにした。

「あいつらと一応、今でも連絡は取ってます。あいつらは以前からシルバの動画に参加したりしてましたから」
 〈東京スプレッド〉を〈シルバ〉の動画で見かけることはたびたびあった。
 丸多はこれまで〈シルバ〉の動画群を観察する中で、いわゆる〈東京スプレッド〉との「コラボ」を何度も確認してきた。北原の話を聞きながら記憶をたどってみる。

 そう。〈東京スプレッド〉が初めて動画に出てきたのが、2017年の8月頃、つまり〈美礼〉が死去した二ヶ月後だった。それに、〈シルバ〉殺害事件当日に行われた「心霊スポット」探索も、「コラボ」の一環として企画されたはずである。

「お恥ずかしい話なんですが」北原はやや顔を伏せながらも続けた。「あいつらに、あまり良く思われてない、というか」
「北原さんがですか?」
「はい。僕は元々シルバのチャンネルの裏方みたいなことをやってて、丸多さんは僕が動画の撮影を担当していたのを知ってますから、そのあたりのことはわかると思いますけど」
「ええ」
「さらにその前は、僕ニート[*1]だったんです。高校卒業してから進学も就職もせずに、家に引き込もっていたんです」
 丸多は笑わずに、神妙な顔つきを保ち続けた。最も北原のこの告白を聞いて、滑稽さのひとかけらも湧き上がって来なかった。

「痛いほどにわかります」丸多の口調はなだめるようであった。「私は一応大学に行って、世間の流れに押されるみたいに今の会社に入りましたけど、働きづらさを完全になくすのって難しいなあ、って未だに思うんです。辞めようと思うことなんて日常茶飯事です。
 何でしょうね、学生時代にも色んなバイトをして、その時にも感じてたことですけど、『先輩』って何なんだろう、って。先にその組織に入った者が無条件で偉い、ってなる風潮がやっぱりどこにもありますよね。それは当然先に入った者たちの、経験に基づいた能力と、それまで組織を支えてきたという自負によって自然と作られる人間関係の一環で、どうしようもないことですけど、『先輩』であることだけで『後輩』を意のままに動かす権利が発生するとは私には到底思えません。
 自分が『後輩』であるときは、『先輩』からの指図や強要の連続で嫌な思いを何度もしてきました。指図は、決して合理性のない、むしろ支配欲を満たす目的のものが多いですし、たとえ合理性があっても、言い方が高圧的だと人を甚だ不快な気持ちにします。
 支配にこだわる『先輩』って大体あれです、指示をないがしろにされると、意固地になって何が何でも『後輩』に言うことを聞かせようとしてきます。だから、『先輩』の指示に対して批判的でいるとその『先輩』は余計に態度を硬化させて、より強権的になっていくんですよね。悪循環です。そして、たまに私が『先輩』の立場になってみれば、今度は『後輩』にも悩まされます」

「生意気な人とか」
「そうですね。ただ、表立って生意気な態度をとる人は滅多にいません。特に私みたいなホワイトカラーの職場では。みんな礼儀正しいですよ、表面上は、(あつら)えたように。
 私は極力今言ったような『先輩』にならないように努めてはいるんですが、それが行き過ぎると、今度はネグレクトのようになるんです。
 ほとんどの『後輩』は、こっちの最低限の助言で自発的に行動しますが、中にはこちらの想定以上のコミュニケーションを必要とする輩がいるんです。俗に言う『構ってちゃん』ですね。自分の感じた寂しさの原因を相手にしか見いだせないタイプです。そういったタイプは、自分に対して満足のいくほどの関心を示さない相手に対して、一方的に腹を立てるんです。そういう『後輩』が放って置かれて寂しさを(つの)らせると、もうダメです。辞めるか、辞めるならまだいいんですけど、寂しさを募らせて且つ辞めない『後輩』は、構ってくれない『先輩』に対して挨拶をしない、などの意趣返しに走ります」
「難しいですね」
「まあ、今言った『先輩・後輩』は、実は組織の中のほんの一部に過ぎないんですけどね。大部分は本当にいい人たちです。頭を悩ます連中というのは、どんなところでもごく一部と相場が決まってます。職場に今言ったような連中しかいなければ、私もとっくに辞めてますよ」

「僕の場合は全然違うんですが」
「ああ、違いますか」丸多はどうしても先走ってしまう自分を再び恥じた。それから、若干恐れ入るようにして、無言で相手が話すのを促した。

「はい。僕の場合、まだその段階に行ってないというか。まあ、今丸多さんが話してくださったことと無関係ではないです。
 僕が嫌だったのは、正確に表現するのが難しいですけど、家とか学校とかで何でもかんでも強制されたこと、ですかね。おこがましい言い方なのは十分わかってるんですが、僕には大人が全員臆病に見えました。
 というのは例えば、大人は狂ったように子どもに勉強させますけど、あれって何でだろうって考えたとき、子どもが落ちこぼれていくのが不安で仕方がないからなんだ、と気づいたんです。それでも、ただ勉強を強制するだけだったらいいんですが、成績が落ちたら一方的に『悪い』と決めつけるんです。
 僕も小さい頃は今よりももっと素直だったんで、言いつけに従って勉強しようと努力はしたんです。だけど皮肉なものですね。今振り返ると、こういうことだったのかな、と思ってるんですが、僕みたいな地味な奴ってやっぱり器用じゃないんですよね。クラスの中で社交的な奴らは、うまくガス抜きをするんです。勉強をして、溜まったガスを雑談や遊びで吐き出す、っていうサイクルが彼らの身体の中で自然と出来上がってるんです。
 だけど僕の場合、やりたくもない勉強をして疲れて、成績が下がり、『悪い』ととがめられ、そしてガスを溜めたとき、それをうまく放出する手段を持ってなかったんです。友達はそれなりにいたんですが、それよりも家で一人でゲームばかりやってましたね。ガスが溜まっていくうちに、家でゲームをする時間は自然と増えていきました」

「ありがとうございます、そういった話までしていただいて」先ほどまでの丸多が北原を軽んじる感覚は遠くへ吹き飛んでいた。

「いえ、お互い様です。まあ、そんなことで、大学受験には当然のごとく失敗して、そこでぷつんと、自分の頭の中の何かが切れてしまったんです。怒り出して暴れた、という意味ではないです。それまで張り詰めていた緊張の糸みたいなものですね。それが切れてしまって、そこからは転がり落ちるように無気力になっていきました」

 丸多の表情は、般若心経でも眺めるときのような真剣なそれであった。また、ようやく話が進展しそうだ、という予感も脳内に芽生え始めた。


[*1]: 「Not in Education, Employment, or Training」の頭文字により作られた用語。「働かない若者」とみなされ、日本では2000年代から社会問題化した。
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