8. 2019年3月30日(土)④
文字数 2,327文字
すでに山間部は夜に沈んでいた。カーナビは無意味な音声を繰り返すだけで、相変わらず役に立たなかった。丸多は記憶した山道と、ヘッドライトに照らされる木々とを慎重に比べながら車を進めた。
「北原さん、道を間違えてたら教えてくださいね」
「はい、自信はないですけど」北原は本当に自信がなさそうだった。
まだ肌寒い季節で、虫の音は聞こえない。街灯もいつの間にかなくなり、音のしない暗闇が段々と濃くなっていった。
視界はほとんど黒一色だが、それでも三度目のドライブであり、迷いはしなかった。丸多は、あの轍のついた小道の入り口で車を停めた。エンジンは切らなかった。
北原が丸多の顔越しに車外へ視線を送った。「まだ、通行止めがかかってますね」
「ええ」丸多は意に介さずにいる。「その先で温泉でも出れば、その立て看板もなくなるかもしれませんね」
丸多の顔がスマートフォンの明かりにより、白く浮かんだ。北原が尋ねるより先に、丸多が言い出した。
「コンビニに着いてから、ファミレスまで約十分。さらにここに来るまでに約二十分、大体計三十分かかりました」
意図がわからず、北原はぼんやりした顔を丸多に向けていた。丸多がさらに続ける。
「レストランで弁当を六人分注文したわけではないですからね。それを加えれば、四十分が妥当なところでしょう」
「東京スプレッドが小屋を出て、また戻ってくるまでの時間を計ってたんですね」北原の顔が少し晴れた。
「そうです。ただ、彼らが当日どのような道順を辿ったかはまだわかりません。それを今から確認しに行きます。誰かが目撃していればいいんですが」
言い終わると、丸多は車をバックさせ、向きを変えた。
「もう、戻るんですか」北原が訊いた。
「じゃあ、幽霊が出て来るまで待ちますか」
「いや」
このとき二人はまだ、この付近の異常性に気づかないほど呑気だった。車は再び市街地に向けて走った。
丸多らの食事が終わる頃、私服に着替えた女子店員がテーブルにやってきた。紺のフードパーカーにロングスカートという、飾り気ない高校生を地で行く格好であった。
彼女は北原が座る座席の端に、尻を半分だけ預けて座った。まるでそこに、二人に近づくのを妨げる反発力が働いているようだった。
「お忙しいところ、すいません」丸多が言うと、女子店員は「いえ、全然」と遠慮がちに答えた。
仕事はもう終わったか、といった一般的な世間話をわずかに広げた後、丸多は本題に移った。
「何度も同じ話をして恐縮ですが、ここに東京スプレッドのニックさんが来たらしいですね」
「はい、来ました」店員は、九日前に通話でしたほど流暢には喋らなかった。年頃の娘と実際に顔を突き合わせればこんなものだろう、と思ったが、もはや丸多にとってそれは重要ではなかった。
「ニックさんは一人でしたか」
「はい、一人でした」
「キャプテンさんとモジャさんはいなかったんですよね」
「はい、いませんでした」
「ニックさんは車で来ていましたか」
店員は天井を見て考え込んだ後、言った。「すいません、そこまでは覚えてないです」
丸多は質問を変えた。「ニックさんはお弁当を六人分買い込みましたよね」
「はい」
「そのくらいの量だと、注文してからどれくらいで出来上がるんですか」
再び店員は考えた。「十分から十五分くらいですね」
「ニックさんも当時、そのくらいの時間、店に滞在したということですね」
「確かそうだったと思います」
「他に何か変わった様子はなかったですか」
「そうですね、特になかったです」
ここで、二人の会話は途切れた。北原が話し出す様子もなかった。沈黙の最中、遠くの座席から「エリ、何やってるの」と能天気な女子たちの声が聞こえた。女子店員はその声に反応して「今、事情聴取されてるの」と大声で返した。
そのときの彼女は、これまでと比べて遥かに生き生きとしていた。友人らしい女子たちは、「エリが犯人なんでしょ」と言い、大きく笑い合った。すると彼女も「そう、モップで叩いたら死んじゃった」と答え、同じ調子で笑った。丸多と北原は笑わずに、そのやり取りを眺めていた。
女子店員が向き直ったのを見て、丸多は言った。「あんな事件があって、地元の人たちは困惑したでしょうね」
「はい」女子店員は、やや饒舌になった。「あの日、東京スプレッドは心霊スポットの動画を撮るために来た、ってニュースで言ってましたけど、この辺に心霊スポットなんてありませんからね」
「え」丸多と北原は目を剥 いた。驚いた二人の反応が愉快だったのか、店員はさらに語った。
「私生まれてから十七年間この辺に住んでますけど、近くに心霊スポットがあるなんて聞いたことないです。事件が起きた山の中は確かに人気がなくて寂しいですけど、人の住むちゃんとした集落はありますし、出るのは熊かイノシシくらいです。幽霊なんて出ませんよ」
「失礼ですが」丸多は咳 を一つした。「山奥で自殺が多発している、という話を聞いたことがありますが」
「ないです」店員は言い切った。「富士山の麓 の樹海の話ですか?それだったら、もっと南です。『自殺の森』はここから三十キロ以上離れてます。この辺は『自殺の森』とは全く関係ないんです。この辺の山で自殺する人なんて、ほとんどいないですよ」
それだけ話すと女子高生は、「あまり店員が客席にいると、心証良くないんで」と言い、軽い別れの言葉を残して席を立った。
丸多はあまりの衝撃に、しばらく言葉を失っていた。
「心霊スポットなんてなかったんですね」
北原に言われても丸多はまだ黙っていた。彼の頭の中で、事件関係者の発言が逐一 見直された。それが終わってから、言葉が彼の口から自然とこぼれた。「シルバさんが嘘をついていた」
「北原さん、道を間違えてたら教えてくださいね」
「はい、自信はないですけど」北原は本当に自信がなさそうだった。
まだ肌寒い季節で、虫の音は聞こえない。街灯もいつの間にかなくなり、音のしない暗闇が段々と濃くなっていった。
視界はほとんど黒一色だが、それでも三度目のドライブであり、迷いはしなかった。丸多は、あの轍のついた小道の入り口で車を停めた。エンジンは切らなかった。
北原が丸多の顔越しに車外へ視線を送った。「まだ、通行止めがかかってますね」
「ええ」丸多は意に介さずにいる。「その先で温泉でも出れば、その立て看板もなくなるかもしれませんね」
丸多の顔がスマートフォンの明かりにより、白く浮かんだ。北原が尋ねるより先に、丸多が言い出した。
「コンビニに着いてから、ファミレスまで約十分。さらにここに来るまでに約二十分、大体計三十分かかりました」
意図がわからず、北原はぼんやりした顔を丸多に向けていた。丸多がさらに続ける。
「レストランで弁当を六人分注文したわけではないですからね。それを加えれば、四十分が妥当なところでしょう」
「東京スプレッドが小屋を出て、また戻ってくるまでの時間を計ってたんですね」北原の顔が少し晴れた。
「そうです。ただ、彼らが当日どのような道順を辿ったかはまだわかりません。それを今から確認しに行きます。誰かが目撃していればいいんですが」
言い終わると、丸多は車をバックさせ、向きを変えた。
「もう、戻るんですか」北原が訊いた。
「じゃあ、幽霊が出て来るまで待ちますか」
「いや」
このとき二人はまだ、この付近の異常性に気づかないほど呑気だった。車は再び市街地に向けて走った。
丸多らの食事が終わる頃、私服に着替えた女子店員がテーブルにやってきた。紺のフードパーカーにロングスカートという、飾り気ない高校生を地で行く格好であった。
彼女は北原が座る座席の端に、尻を半分だけ預けて座った。まるでそこに、二人に近づくのを妨げる反発力が働いているようだった。
「お忙しいところ、すいません」丸多が言うと、女子店員は「いえ、全然」と遠慮がちに答えた。
仕事はもう終わったか、といった一般的な世間話をわずかに広げた後、丸多は本題に移った。
「何度も同じ話をして恐縮ですが、ここに東京スプレッドのニックさんが来たらしいですね」
「はい、来ました」店員は、九日前に通話でしたほど流暢には喋らなかった。年頃の娘と実際に顔を突き合わせればこんなものだろう、と思ったが、もはや丸多にとってそれは重要ではなかった。
「ニックさんは一人でしたか」
「はい、一人でした」
「キャプテンさんとモジャさんはいなかったんですよね」
「はい、いませんでした」
「ニックさんは車で来ていましたか」
店員は天井を見て考え込んだ後、言った。「すいません、そこまでは覚えてないです」
丸多は質問を変えた。「ニックさんはお弁当を六人分買い込みましたよね」
「はい」
「そのくらいの量だと、注文してからどれくらいで出来上がるんですか」
再び店員は考えた。「十分から十五分くらいですね」
「ニックさんも当時、そのくらいの時間、店に滞在したということですね」
「確かそうだったと思います」
「他に何か変わった様子はなかったですか」
「そうですね、特になかったです」
ここで、二人の会話は途切れた。北原が話し出す様子もなかった。沈黙の最中、遠くの座席から「エリ、何やってるの」と能天気な女子たちの声が聞こえた。女子店員はその声に反応して「今、事情聴取されてるの」と大声で返した。
そのときの彼女は、これまでと比べて遥かに生き生きとしていた。友人らしい女子たちは、「エリが犯人なんでしょ」と言い、大きく笑い合った。すると彼女も「そう、モップで叩いたら死んじゃった」と答え、同じ調子で笑った。丸多と北原は笑わずに、そのやり取りを眺めていた。
女子店員が向き直ったのを見て、丸多は言った。「あんな事件があって、地元の人たちは困惑したでしょうね」
「はい」女子店員は、やや饒舌になった。「あの日、東京スプレッドは心霊スポットの動画を撮るために来た、ってニュースで言ってましたけど、この辺に心霊スポットなんてありませんからね」
「え」丸多と北原は目を
「私生まれてから十七年間この辺に住んでますけど、近くに心霊スポットがあるなんて聞いたことないです。事件が起きた山の中は確かに人気がなくて寂しいですけど、人の住むちゃんとした集落はありますし、出るのは熊かイノシシくらいです。幽霊なんて出ませんよ」
「失礼ですが」丸多は
「ないです」店員は言い切った。「富士山の
それだけ話すと女子高生は、「あまり店員が客席にいると、心証良くないんで」と言い、軽い別れの言葉を残して席を立った。
丸多はあまりの衝撃に、しばらく言葉を失っていた。
「心霊スポットなんてなかったんですね」
北原に言われても丸多はまだ黙っていた。彼の頭の中で、事件関係者の発言が