3. 2019年3月9日(土)②

文字数 3,293文字

 狭いエレベーターで四階に上がると、(かぎ)型に曲がった薄暗い通路が現れた。フロアに扉は二つしかなく、角を曲がった先が目的の部屋に当たるらしかった。

「ここです」北原が小声で言った。
 人間の寝息に埃が混ざったような匂いが、丸多の鼻孔をついた。丸多は物珍しげに辺りを眺めたが、そこでは表札や傘など一般的な玄関口で見られそうなものが一切排除されていた。

「押しますか」北原がインターホンに指を添えながら言う。丸多は無言で頷いた。
 軽やかな電子音が奥で響き、数秒後に金属製のドアが開いた。二人を出迎えたのは、豊かなアフロヘアの〈モジャ〉だった。

「おう、遊矢。久々だな」
「うん、久しぶり」
 そう言う北原が、無理に笑顔を作っているのは明らかであった。
 丸多は自分から挨拶をしようと半歩前へ出た。しかし、〈モジャ〉が先に「まあ、入れよ」と言い、さっさと奥へ行ってしまったので、その機会は失われた。

 通されたリビングは雑然としていて、動画で観る印象そのままだった。北原がテーブルに備え付けられた椅子に座るのを見て、丸多もそれに(なら)った。

 二人が椅子に収まってから十数分は何も起きなかった。リーダーである〈キャプテン〉と自己紹介し合う場面などを、丸多は前もって予期していたが、どうやらそのような形式的な取り交わしは行われないらしかった。

 もちろん丸多はその間首を回し、滅多に入る機会のないその部屋の内部を入念に観察した。外観の記憶と照らし合わせることで、リビング含め、そこに部屋が三つあることを確認した。残り二つも洋室のようで、家賃は大体、大卒初任給の半分強、十一万と踏んだ。

 二つあるうち一方の部屋の扉は開いていて、その内部の様子を二人とも窺うことができた。そこには〈モジャ〉と〈ニック〉がいるらしく、時折笑い声の交じる低い声での会話がなされていた。その内容が決して、来客に出す飲み物についての相談などではないことは、門外漢の丸多にもわかった。

 床もテーブルの上も、秩序から解放された雑多なもので溢れていた。ペットボトル、空き瓶、灰皿、カップ麺の空き容器、ガムの包み紙、脱ぎ捨てられたスウェット上下、靴下、空の紙袋、雑誌、漫画、クッション、用途不明のケーブル。それらのリストを作れば、小さい字で書いたとしても、A4用紙一枚を軽く埋められそうであった。
 その中で、口の開いた巨大なスーツケースと、理科実験で用いる人体模型は、占める面積も広く、何より奇異で、丸多の注意を引いた。

 北原は為す術がない、と言わんばかりに丸多と目を合わさず、無意味な微笑を浮かべてばかりいた。丸多は居心地の悪さこそ感じなかったが、どうせ北原が場を取り仕切ることはないだろうと考え、状況が変わるのをひたすら待った。

 そこから最初に二人に声をかけたのは、やはり先ほども応対をした〈モジャ〉だった。
「遊矢、飯喰った?」
「いや、まだ喰ってない」
 親しげであるのはうわべだけで、玄関でのときと同様、北原の気持ちの奥に隠れた緊張は容易に感じ取れた。

「そっちのお兄さんは」〈モジャ〉は丸多にもそう聞いてきた。
 丸多は「あ、私はもう食べてきました」と反応良く答えたが、振ろうとして上げた片手をテーブルにぶつけるなどして、焦りを隠すことに失敗した。

「遊矢、昨日のカレーの残りあるんだけど喰う?」
 北原は一瞬考えた後、答えた。
「どうしよう、じゃあ、せっかくだから貰おうかな」
 コンロに火を起こす間、〈モジャ〉は無言で二人に背を向けていた。

「あの、モジャさん」丸多が言い、〈モジャ〉が振り向いた。その顔の全面には、倦怠(けんたい)(もや)がかかっていた。
「私は丸多好景といいます。北原さんの友だちです。今日はいきなりお邪魔してしまい、すみません」

 〈モジャ〉は、ああ、と喉の奥で言った後、「仕事は?」と聞いた。
「川崎で会社員をしてます」
「今日は休み?」
「はい、今日は休みです」
「まあ、ゆっくりしていきなよ」
 そう言って彼はまた、気だるそうにしながら台所の方を向いた。丸多を心から歓迎する気はないらしかった。しかし〈モジャ〉のその全く干渉してこない無関心さに対し、変に心地良さを感じ、丸多はその分析し難い感覚を不思議に思った。

「スプーンは」〈モジャ〉が北原に言った。「その辺にあるから自分で探して」
 北原がテーブルの上を掻き回す間、丸多は後ろで音がしたように思い、そちらを振り返った。
 すると、閉まっていた方の扉から男が出てきて、丸多と目を合わせた。ハンディカメラを携えた〈ナンバー4〉は丸多に、しっ、と人差し指で口を抑える仕草をした。

 〈東京スプレッド〉の他の四人と比べ、動画出演の機会が少ないこの男を丸多は特に注意深く眺めた。地黒の肌は軽いアレルギー症状を示していて、全体的にほんのり赤みがかっている。体格も華奢(きゃしゃ)で華があるとは言えないが、その分、裏方に徹するのは得意であるように見える。
 また大柄の〈ニック〉も、裸足にTシャツ、ハーフパンツという格好で出てきた。片手に封の開いたスナック菓子の袋を抱えている。

 北原はようやく卓上のスプーンを探し当て、出されたカレーをゆっくり食べ始めた。
「さて」〈モジャ〉がノートパソコンをテーブルに置いた。「遊矢たちが観たいのは、シルバさんの事件のときの動画だっけ」

 口の中がいっぱいの北原に代わり、丸多が答えた。「そうです」
「いいよ。待って、今再生する」〈モジャ〉は既に画面に表示されたメディアプレーヤーの再生ボタンを押した。

 映し出されたのは、全裸で四つん這いになる男の姿だった。その人物が〈シルバ〉でも〈東京スプレッド〉のうちの誰でもないことは、丸多にもすぐにわかった。その直後、〈モジャ〉と〈ニック〉が声を裏返して大笑いを始めた。
 〈ニック〉の口の端からは、噛んだ菓子の欠片がいくつも飛び出した。画面では痴態をさらす男の尻が大写しされ、また彼の苦悶を示すうめき声がスピーカーから流れた。音量は最大限まで引き上げられていた。

「どうだ遊矢」〈モジャ〉の顔には無上の喜びが浮かんでいる。「尻から流れ出るものを見ながら、うまそうにカレーを喰うことはできるか。俺たちは昨日、上野まで行ってわざわざ、この映像のものと同じ色のルーを買って来たんだ。画面から目を逸らすな。そうだ、出るものを凝視しながら、スプーンを口に運ぶんだ」

 北原の後ろで〈ニック〉が文字通り笑い転げた。手に持っていた菓子の袋は床に落ち、中身が無秩序に散乱した。しかし、彼はそれに構うことなく手で膝を叩きながら笑い続けた。
 〈モジャ〉はノートパソコンに手を伸ばし、さらに操作を加えた。すると今度は、人気のない草むらでしゃがむ若い女の後ろ姿が映った。この女も先の映像の男と同様、全裸でいる。女の尻からも、前の映像と同じものが排出された。

「よし」〈モジャ〉が言った。「今日の動画は『衛生的に問題のある動画を観ながら、カレーを食べることはできるか』、これで決まりだ。どうだ遊矢、おかわりもあるぞ。今日はお前のおかげで、再生回数五十万は稼げるだろう。どうした、全然カレーが減ってないぞ。昼飯を喰ってないんだろ。遠慮するな。カレーを喰え。そうだ、画面を観て、カレー。テンポよく、そう。画面から目を離さずに、そう、カレーを口に入れるんだ。困難から逃げるなよ、遊矢。さもそこに小川のせせらぎがあるかのように喰うんだ。そして、地球上にこれ以上うまいカレーは存在しない、って顔をして見せろ」

 北原は〈モジャ〉の指示通りカレーを着実に減らしていった。しかし、込み上げる吐き気を抑えることはできないらしく、最初の映像の男優と同じように、苦痛の色を顔に貼り付けていた。

 いくらなんでも舐められ過ぎだろう。
 丸多は北原を見ながら思った。やがて、耐えきれなくなった北原は戻してしまい、彼の足元に吐物(とぶつ)が広がった。そこで〈モジャ〉と〈ニック〉の笑いは最高潮に達した。

「遊矢、ホントに吐いてどうすんだよ」二人が声を揃えて言った。丸多は彼らの戯れに入り込む隙きを全く見いだせず、ただ黙っていることしかできなかった。
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