5. 2019年3月21日(木)⑤

文字数 2,419文字

 支払い時、丸多が財布を出そうとすると、〈ナンバー4〉が涼しい顔で言った。
「僕が全部払うんで大丈夫ですよ」
 レジの前で、丸多と〈ナンバー4〉との「自分が払う」と言い合うあの攻防が始まった。最終的に譲らない〈ナンバー4〉に丸多が折れた。いかにも日本人然とした二人のやり取りを前に、北原は少しく笑い声をあげた。

「使わない分のお金が余ってて、それを使い切りたいんですよ」〈ナンバー4〉は言いながら、鞄に片手を入れた。
「使わない分のお金なんてあるんですか」丸多はここでも景気の良い言葉を聞いて、目を丸くした。
「そんなお金あるんなら、ちょっとくれよ」帰る段になると、北原もいくらか活力を取り戻していた。
「やだよ。遊矢もシルバさんみたいに自分で稼げ」
 〈ナンバー4〉は手慣れた動作で、店が提示した画面をスマートフォンで読み取った。決済は一秒とかからなかった。

 丸多と北原は、こうして一円も払わずに外へ出た。上野駅で別れ際、丸多は〈ナンバー4〉に「何から何まで世話になった」と重ねて礼を言った。〈ナンバー4〉は「犯人がわかったら教えてください」と笑みを浮かべ、改札口を抜けて行った。手を振りながら丸多は、やはり今日も〈東京スプレッド〉は名乗らなかったな、と思った。

 午後9時半に丸多は自宅マンションに戻った。見せてもらった動画内容を、忘れないうちに紙にでも書いておきたかった。しかし用事はまだ残っていて、ベッドに腰かけてからすぐに〈ちょいす〉の家に電話をかけた。

 ネットで調べたところ、「橋井工務店」の営業時間はとっくに過ぎている。丸多は呼び出し音を聞きながら、店舗と一体化した彼女の自宅を思い浮かべた。留守電に切り替わったら諦めようと思っていると、ふいに受話器の上がる音がした。

「はい」声の主はその後に「橋井工務店です」とは言わなかった。しかし、その声が先週会った〈ちょいす〉の母親のそれであるのは明白だった。独特の(とげ)のある響きは、あのとき受けた印象そのままであった。

「夜分遅く恐れ入ります」丸多は言う一方で、これ以外の第一声はないものか、とうんざりした。信頼関係がないうちは仕方がない。このまま顧客として台所のリフォームでも依頼すれば、少しでも相手が多弁になるだろうか、などと空想しながら続けた。

「この間、中田銀さんのことでお話を伺った丸多好景と申します。その節はお約束もないまま訪問してしまい、大変失礼いたしました」
 丸多の予想に反し、相手は低姿勢で返してきた。「こちらこそ、大変失礼しました」

 丸多はここでも、私的に事件の調査をしている旨を伝えようとした。しかしそれは簡単に遮られ、電話口からは聞いてもいない家庭内の近況が早口で流れてきた。
「あの子は病気なんです」
「でしょうね」この言葉は、丸多が自分でも驚くほど滑らかに出てきた。

 以後十数分、丸多は「橋井まどかが、いかに聞き分けのない娘か」、また「自分が母親としてどれだけ苦心してきたか」といった、極めて一方的な話を聞き続けなければならなかった。
「お母様の気苦労は重々承知しています」これも「夜分遅く―」と同様、定型句に違いなかった。

「それでですね」丸多はそこで話題を転じることに成功した。「中田銀さんの遺品を整理していたら、たまたま、まどかさんの私物を見つけまして」
「まどかに代わりましょうか」
「いえ、お伝え頂ければ結構です。もしご迷惑でなければですね、今週の土曜にでもそれを届けに、またそちらに参る考えでいるんですけれども、ご都合はつきますでしょうか」
「まあ、わざわざありがとうございます」

 丸多は空気に向かって何度もお辞儀をしてから、電話を切った。さあ、次は北原だ、とスマートフォンの画面を見直したとき、アプリによる通話がかかってきた。見たことのないアカウントだったが、大体の察しはついた。気負い立つ気分を何とか抑え、親指で通話ボタンを押した。

「もしもし」幼い女性の声がした。
「もしもし」の後、こちらから用件を聞くのも無粋に思い、丸多は続けざまに話した。「もしかして、××レストランの従業員の方でしょうか」「はい、そうです」

 丸多の予想通り、山梨県のファミリーレストランでアルバイトとして雇われている女子高生であった。聞くと、丸多の名刺を受け取った女性店員から大まかな話を聞き、通話をかけた、とのことだった。その高校生はすでに〈東京スプレッド〉の存在を把握していた。

「半年以上前なんですけど」丸多は流暢に言った。「2018年の8月ですね、お店の近くの山奥で良くない事件が起きましたが、その日の夕方、東京スプレッドのメンバーのうち誰か来店しませんでしたか。メンバーがそこで沢山のお弁当を購入したことを、こちらでも確認し」
「ニックさんが来ました」学生は、丸多が言い終わるのを待ち切れないらしかった。

 それから、記憶するに至った顛末(てんまつ)も聞き出した。やはりこちらもコンビニ店員同様、事件から数日後、警官立ち合いのもと店内カメラの映像を直接確認した、と述べた。
「ニックさんだけでしたか。他にキャプテンとか」
「ニックさん一人でした」女子の声に迷いはなく、また耳によく通った。「マスクをかけてましたけど、大柄でこの辺では見ない男の人だったんで印象的でした。そのとき私がレジを打ったんで余計、その、何て言うんだろう」
「それも、より強く記憶に残る要因の一つだった、ということですね」
「はい、そうです」電話の向こうで学生は照れて、少し笑った。

「重ねて訊きますが」丸多は端末を耳に強く当てた。「周囲でキャプテンさんとモジャさんの姿は見なかったんですね」
「見ませんでした」
「わかりました、ありがとうございます」
 通話は向こうから切れた。

 事件を覆う(まゆ)の糸口は依然つかめない。しかし、硬かったその繭は徐々にほぐされていくように思える。丸多は新たな情報を頭の片隅に置きつつ、先ほど観た映像を脳内で再現するよう努めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み