10. 2019年8月

文字数 2,317文字

    ◆

「ごめん、お待たせ」
 靖国通りを横にそれた神保町の路地裏、カメラを片手に持った〈ちょいす〉がばたばたと走り寄ってきた。

「無事に()けた?」丸多は鞄にスマートフォンをしまった。
「撒けた。誠実なリスナーは好きだけど、もうホント、ストーカーみたいな奴は大っ嫌い」

 〈ちょいす〉はマスクを顎の下まで素早く下げた。そして、体の前面に回したリュックの底にカメラを押し込んだ。直前に仕入れた退屈な苛立ちまで封印するようで、丸多の喉に可笑しさが込みあげた。

 数分前、近くの喫茶店で、丸多は彼女の行動をスマートフォンで観察していた。生配信を切ろうとしていた〈ちょいす〉に、油の池から上がって来たような男が近づいてきた。
「ちょいすちゃんですよね」
「あの、今日はもう終わるんで、ごめんなさい」
 〈ちょいす〉は男の顔を一瞥しただけで、すぐに路上を歩き出した。
「ちょいすちゃんですよね、いっつも観てます」
「ごめんなさい、ついて来ないで下さい」
 〈ちょいす〉は駆け出し、小さな枠内の風景が大きく揺れた。
「ちょいすちゃん」
「ついて来ないでって言ってるでしょ!」

 曲がり角の影で、息を切らせた〈ちょいす〉はようやく締めくくりにかかった。
「しかし、私に追いかけられるくらいの男になってから来いっつうの。夜にまた配信します。それじゃ」

 二人は日陰の路地を並んで歩き出した。
「さっきの男の人、この辺にはいないよね」丸多が言った。
「うん。ここに本買いに来るほど頭いいんなら、そもそもストーカーにならないし」
「俺の用事だけ先に済ませていい?」
「うん、いいよ」

 古書店の二階で、丸多はヴァン・ダインの「ケンネル殺人事件」を取った。裏をめくると、値札に600円と記されていた。
「凄い、こんな知的なお店来たことない」〈ちょいす〉は丸多の後ろで、久々に箱から顔を出したかのように店内を見回した。

「さあ、次に行くよ」丸多が〈ちょいす〉のTシャツの端を引くと、彼女は頭を彼の顎の下まで近づけてきた。
「もう一軒行くの?」
「うん」

 広い横断歩道を渡り、今度はジャンクショップ風の古書店に入った。
 丸多はそこで買ったばかりの文庫本をカウンターに置いた。若い男性店員は、買取価格900円を告げた。
「わかりました。考えてから、また来ます」

 店を出るとき〈ちょいす〉が見上げて言った。「売らないの?」
「うん、これは自分用に取っておく」
「凄いね。600円が900円になった」
「いつもは、こうはいかないけどね。今日はかなり運がいい方。ヴァン・ダインの絶版本は貴重なんだよ」
「ふうん」

 丸多はそのまま〈ちょいす〉を引き連れ、タクシーを拾った。
「墨田区霊然寺(れいぜんじ)まで」

 車通りは少なく、メーターもさほど気にならなかった。〈ちょいす〉は丸多の意図を察したらしく、車内ではしばらく口をつぐんでいた。

 〈モンブラン〉こと奈留瀬友武の墓は、献花の必要のないほど供え物にまみれていた。彼が映る動画の一コマらしい写真も、写真立てに入れて飾られてあった。中には〈美礼〉と二人で並ぶよう合成されたものまであった。

 二人は、供物台に置き切れず、両脇に並べられた色とりどりの花の間を進んだ。
「モンブランくんも、道を踏み外さなければ有名人だったのになあ」〈ちょいす〉がぼつりと言った。 
 丸多は手を合わせ、生前の彼の像を頭に描いた。目を開け、横を見ると、〈ちょいす〉はまだ祈る姿勢を崩さずにいた。

「奥寺さんの墓参りもしたいな。ほら、あの事件現場の家に住んでた人」丸多が言うと、〈ちょいす〉は目を開け顔を上げた。彼女は曖昧に頷いた。その頭からは、一秒ごとに事件の空気が少しずつ遠ざかっていくらしかった。

「この後、どうするの?」
 墓所を出て、〈ちょいす〉が訊いてきた。夕暮れ空の下でたたずむ彼女の曲線は十分に官能的だった。脚に張りつくスリーストライプのレギンスが、なぜかそのときになって彼女の隠れた妖艶(ようえん)を強調した。

 丸多が口を開きかけると、〈ちょいす〉が彼の背後に視線をやった。振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
「タクミ。よく、ここわかったね」

 〈ちょいす〉は丸多の横を通り抜け、その男に抱きついた。男は体つきの良い学生風の男で、〈ちょいす〉のよりもややゆったりとしたジャージを履いていた。男は、白い半袖シャツから伸びた筋肉質の腕を彼女の背中に回した。そして二人は公然とキスをした。

「タクミもお参りしないとダメだよ」〈ちょいす〉がねばりつくような声を出した。それは丸多が聞いたことのない甘い声であった。
「俺、もう墓参りして来たよ。モンブランのでしょ。供え物いっぱいあったから、すぐわかった」タクミと呼ばれる男の声には、独特の切れ味があるように感じられた。

「何してたの?」タクミが〈ちょいす〉に訊いた。
「丸多さんとお喋りしながら、暇つぶししてた」〈ちょいす〉は平然と答え、さらに続けた。「丸多さん優しいんだよ。私の家に来たとき、洗剤持って来てくれたの」
 〈ちょいす〉はどこにも悪気のない笑顔を丸多に向けた。そして「ね」と言って、さらに笑って見せた。

 丸多は戸惑いを隠そうとして、慌てて口を開いた。
「うん、あの箱どうした?」
「箱?」〈ちょいす〉は男の腕の中で、きょとんとした顔をした。「わかんない。覚えてないから、多分捨てたと思う」

 二人は仲良く腕を組み、東京の夜へ吸い込まれて行った。

 丸多は彼らを見送りながら思った。
 優しさが大げさでもいいじゃないか。俺はこんな自分が好きなのさ。

                 (了)

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