第37話 口当たりの良い甘い毒

文字数 3,619文字

 十一(じゅういち)は届けられたばかりのワインの封を開けた。
グラスに注ぐと、貴腐ワイン独特の蜂蜜色に甘い芳香。
一口に含んで、蕩けるように甘く、香りだけ残して消えていく味わいに感嘆の思い。
「・・・・やってくれたな・・・」
勿論これは称賛であるけれども。
元首の妻が所有するワイン畑で醸造された初の貴腐ワイン。
その実は残雪(ざんせつ)が手掛けたもので、今や彼女の実家が専売権を得ていた。
フィンの元にも母親からワインを煮詰めてアルコールを飛ばしたシロップで漬けられた果物の瓶詰めが山のように届いており、彼はどれほど心付けられた事だろう。
デスクの上の残雪からの報告書と日報を眺めながら十一(じゅういち)がグラスを口に運んでいた。
蜂蜜色のワインは国際的な高い評価を得て、随分売れたそうだ。
自らの手でそれまでの文化産業を半分以上破壊してしまい、まだたいした産業も無い、常に国庫が空っぽに近いA国は随分潤った事だろう。
これは間違いなく残雪(ざんせつ)の功績であり、引いてはフィンの立場も良くなるはずだ。
花鶏(あとり)はなかなか機転が利き、后妃(きさき)達の催しにフィンを連れ出して、彼の利となる人脈を得させている。
今やフィンは異国から来た小貴公子として宮廷で受け入れられていた。
逞しさで言ったら残雪(ざんせつ)が上だろうけど。
《希望の星の味、ご賞味されたし》とメッセージカードが付いていた。
ワインは希望の星という名をつけられたらしい。
残雪(ざんせつ)から電話で顛末を説明され「実家の商社で販売する事になったから品物を送るから飲んでみて」と言われたのに「蜜のように蕩ける甘いワインにしてはだいぶ健康的なイメージの名前、まるでスポーツドリンクみたいな名前だ」と伝えた所「まあ不健全ね!これを陶酔とか背徳と思うのはアナタの資質よ?祝福とか希望とか、そういう風に思ってちょうだい。アナタこれはね、本当に信じられない山奥で、奥様(ケイティ)の健気な努力が身を結んだ結果なの!内助の功よ!」と説教をされた。
しかし、確かに希望の星とは、まさに波乱を越え未来を掴みたいA国に一番必要なものだろう。
しばらくすると蓮角(れんかく)が入室の知らせをして入って来た。
高貴なる人質の随伴としてA国に赴いた娘と息子から話は聞いている事だろう。
「ああ、蓮角(れんかく)、雪からワインが届いた。尾白鷲(おじろわし)姉上にも届けてくれ」
「あら!話題の希望の星ね!」
グラスを渡すと蓮角(れんかく)は、ぐっと煽り、目を輝かせた。
「なんていい香り。・・・神殿(オリュンポス)に酒類を持ち込むの?」
「・・・まあ、大丈夫だろ。参道あたりまで降りてこりゃ」
「神官が参道で酒飲んでたら外聞が悪いわよ。・・・それはそれとして。十一(じゅういち)、ご案内したのだけど・・・」
蓮角(れんかく)が声を落とした。
ドアに女性の姿があった。
「よろしいかしら?」
柔らかな薔薇色のドレス姿で、可愛らしい小犬を抱いて、花束のように畳んだ傘を持っている。
最近の宮廷の貴族の間で流行りの犬種らしい。
雨でも無いし日差しも強くは無いが、小ぶりの華やかな傘を室内で持つのも流行らしい。
蓮角(れんかく)は、本当に薔薇の花のような女性だと思う。
内廷の十一(じゅういち)の部屋まで来れるのだから、王族筋の女性である事が明らかだし、更に言えば彼女は十一(じゅういち)の妻である。
信じがたいが、この兄弟弟子は初婚のほぼ新婚だ。
「・・・ああ、陛下のお招きかい?」
「ええ。陛下に園遊会のお話をお聞きしたの」
そう言うと、ソファに座る。
「来月でございますね。準備も進んでおりますから、お楽しみくださいますように」
蓮角(れんかく)が、礼をして退出した。
「・・・マダム、ごきげんいかがかな。・・・家令の部屋なんかに来てはいけないよ」
妻を名前ではなく敬称で呼ぶのは貴族の習慣だ。
「貴方のお部屋だわ。お帰りにならないし、なかなかお会い出来ないから来てみたの」
十一(じゅういち)はそう言えばそうかと思い出した。
結婚と同時に用意した邸宅には、しばらくを訪れて居ない気がする。
「ああ、すまなかったね。明日にでも行ってみるよ」
「行ってみるではなく、貴方のお帰りになる場所でしょう?・・・皆が言うように陛下のせいなの?」
橄欖(かんらん)が、お気に入りの彼をなかなか手放したがらないのは知っている。
女皇帝は妊娠7ヶ月に入ってから、友人と小旅行に出かけた先で、夕食後に突然に早産で分娩を果たしたが、その子は朝を迎えられ無かった。
家令の蓮角(れんかく)ではなく、懇意にしている友人の医師(ドクター)を伴っていたが、失意のあまり、橄欖(かんらん)は、その医師(ドクター)を処罰し、子の父親である二妃を廃妃にした。
それ以降、女皇帝は情緒不安定になる事が多くなり、以前にも増して十一(じゅういち)を重用する事が多くなった。
総家令の海燕(うみつばめ)を差し置いてのその振る舞いに、女皇帝は総家令補佐の十一(じゅういち)を王夫人にでもするつもりでは無いかと口さがない面々は噂している。
十一(じゅういち)としては、こんな悪ふざけのような噂話に、大事な弟弟子であり未来のある海燕(うみつばめ)が巻き込まれなくて良かったとすら思う。
「・・・陛下より、あの傷物の女家令(日雀)より、私を選んだのは貴方よ?・・・私がなかなか子供が出来ないから?」
一年以上経つがその兆候は見られない。
十一(じゅういち)が首を振った。
「そんな事あるわけがない」
優しい言葉に、紗和(さわ)は一瞬、ほっと微笑んだ。
「では、なぜ?陛下でも無いなら」
夫とのこの距離はなんだ。壁はなんだ。
自分に至らないものというのは何なのだろう。
「妻として、女性として、君が満たない物なんか何もないよ」
「じゃあ、貴方、なぜ・・・」
余計分からないと顔を上げ、視線を合わせて、一瞬押し黙った。
答えを得たのか、彼女は顔色を変えて立ち上がりそのまま部屋を出て行った。
君が満たない物なんてない。
ただ、君じゃ自分は満たされ無い。
そう言う事。
ドアの外で見送りの礼を済ませた蓮角(れんかく)が口を開いた。
「・・・呆れたことね。アンタ、そのうち刺されるわよ」
「貴族なんか、家令なんかこんなもんだろう?自分だって、さっさと八角鷲(はちくま)と関係を解消してお互い好きにやってるじゃないか」
痛い所をつかれて、蓮角(れんかく)は、何か悪態をついて、箱に手を伸ばした。
「2本、いえ、5本程頂いておくから。それから、雪様にお礼状書くついでに告げ口しておくわ」
蓮角(れんかく)がワインを木箱から5本取り出して部屋を出ていった。

 関係が決定的になったのは、十一(じゅういち)の妻が、彼の所有する愛馬を友人に譲り渡そうとした事。
弟弟子の八角鷲(はちくま)から連絡を受け、白魔(はくま)という名前をつけられたその見事な黒毛を迎えに来た十一(じゅういち)が、惨々たる有様の厩舎を眺めた。
無類の馬好き、馬気違いとして有名な貴族の邸宅の一角。
あれ程の気難しい馬の引き取り先はここであろうとは思ったが、彼でもやはり手を焼いたようだ。
自慢の厩舎のあちこちが壊れ、乱れ、壁には血の染みが付いている。
紗和()の友人の貴族である渡会井播磨(とかいはりま)が、慌てて近付いて来た。
彼は、妻同様、女皇帝の取り巻きの一人。
個人的にそれほど交流は無いが、同じ階級に属している訳で当然知らぬわけでは無い。
「全く困ったものだ。早く引き取ってくれ」
蹴り飛ばされ、更にあちこち(かじ)られて馬丁が二人骨折したらしい。
東目張卿(ひがしめばるきょう)、一体、あれはどう言う馬なんだ・・・」
「繁殖の時期でなくて良かった。彼女はすでに牡馬(ぼば)を二頭蹴り殺していてね。第三の被害者が出る所だった。競走馬になれなくて軍馬になった牝馬(レディ)だよ」
「なんだそれは!?化け物か!?」
「しかし、私は何も知らされていなくてね。手離すつもりは無かったのだけど」
そう言うと、播磨(はりま)は気まずそうに舌打ちをした。
「・・・卿、私も知らなかった事であったとは言え、どうかこの事は陛下には内密にして欲しい。ご夫人の立場もまずかろう」
女皇帝が、貴族家令の十一(じゅういち)にご執心なのは誰もが知る所だ。
妻とは言え、彼の財産を無断で処分しようとした等、まずかろうと言う事。
「いや、二人も負傷させているのに、殺さないでくれて、感謝ばかりだ。怪我人はこちらで治療させて頂けないだろうか。典医の蓮角(れんかく)を寄越すから」
播磨(はりま)は逆に礼を言われて面食らった。
「宮廷の御典医をと言われれば、ありがたい話だ。・・・実は、母の容体が思わしく無い。一度、診て頂くことは可能だろうか」
彼は、母親が病を得て長く無いとは言われているが、全ての治療も拒否してただ伏せっている様子がどうにも辛いのだと言った。
「・・・そうだったのか、それは勿論。あの姉妹弟子(きょうだいでし)が力を尽くすだろう」
播磨(はりま)が礼を言った。
十一(じゅういち)はすっかりご機嫌を損ねたらしい愛馬に近寄った。
「・・・大変苦労をかけたな。今度は人間の雄を二人殺し損ねたって?お前、やっぱり馬じゃ無いんじゃないか?とても草食ってる生き物とは思えない。本当は虎とか、山猫なんじゃないか?」
八角鷲(はちくま)が馬運車の用意が出来たと伝えに来た。
冷暖房完備、新開発のサスペンションで揺れも大幅軽減。大好きなリンゴもパイナップルもセロリも角砂糖も山のように用意され、VIP待遇。
黒毛の牝馬は、馬運車を覗き込み、まあ、それならば顔を立ててやらんでもない、と諾々とした様子で歩き出した。

 その数日後、十一(じゅういち)が、妻と離婚を正式に申し立て、女皇帝によってその日のうちに決済された。






ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

棕梠 佐保姫残雪《しゅろ さほひめ ざんせつ》

継室候補群のひとつであるギルド系の棕梠家の娘。

蛍石女皇帝の皇子の乳母として宮廷に上がる。

蛍石《ほたるいし》   女皇帝。


五位鷺《ごいさぎ》  蛍石女皇帝の総家令。

八角鷹《はちくま》  宮廷家令 

蓮角《れんかく》  宮廷家令・典医

蜂鳥《はちどり》  宮廷家令 八角鷹《はちくま》と蓮角《れんかく》の娘。

駒鳥《こまどり》  宮廷家令 八角鷹《はちくま》と蓮角《れんかく》の息子。

日雀《ひがら》   宮廷家令 

山雀《やまがら》の双子の姉。

山雀《やまがら》   宮廷家令  日雀《ひがら》の双子の妹。

海燕《うみつばめ》  宮廷家令

銀星 《ぎんせい》  蛍石と五位鷺の息子

春北斗《はるほくと》  残雪と五位鷺の娘。

橄欖《かんらん》  蛍石と正室の娘。

尾白鷲《おじろわし》 宮廷家令

東目播 十一 《ひがしめばる じゅういち》 

家令名 慈悲心鳥《じひしんちょう》。

花鶏《あとり》 宮廷家令


竜胆《りんどう》 

蛍石《ほたるいし》の正室。皇后。

楸《ひさぎ》 

蛍石《ほたるいし》の継室。 二妃。

柊《ひいらぎ》の兄。

柊《ひいらぎ》

蛍石《ほたるいし》の継室。 三妃。

楸《ひさぎ》の弟。

棕櫚 黒北風 《しゅろ くろぎた》

残雪の母

春北風《はるぎた》の双子の姉

残雪が総家令夫人となったことでギルド長になる。

棕櫚 春北風 《しゅろ はるぎた》

残雪の叔母

黒北風《くろぎた》の双子の妹



アダム・アプソロン

A国元首

ケイティ・アプソロン

アダムの妻

A国元首夫人



サマー・アプソロン

アダムとケイティの娘

フィン・アプソロン

アダムとケイティの息子

"高貴なる人質"として残雪と交換となり海外に渡る。

コリン・ゼイビア・ファーガソン

A国分析官・尉官

アダムの友人

フィンと残雪の人質交換の任を務めた。

須藤 紗和 《すとう さわ》

東目張《ひがしめばる》伯夫人

橄欖《かんらん》女皇帝の貴族達の友人の1人。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み