第66話 平蜘蛛の行方
文字数 2,669文字
右の手を腹に、左の手を壁に沿えて玉鏡が廊下を足早に歩いていた。相変わらず腹ははち切れそうなほど痛む。なぜ人間が神仏にすがるのか身に染みてわかった。
あれは……。
代り映えのしなかった廊下の先に暖簾 がかかっている。そこにはひとつの字だけが書かれていた。
厠
思わず頬が緩む。まさか、このひと文字にここまで気分を高揚させられようとは。いまだ腹の痛みは引かない。しかし、ここまで来れば勝ったも同然。
暖簾をくぐり、ただひとつある個室の戸を開けようと——。
がたん。
開かない。
がたん、がたん。
押しても引いても戸はがただた鳴るばかり。内から閂 が掛けられている。
まさか——。
この期に及んで誰か入っているのか。
「ふぐっ……!」
思った途端、また腹が激しく痛みだした。波がきた。大波だ。ものが下ってきている。
どんどんどん!
玉鏡は戸を叩いた。誰が入っていようと引きずり出さねば。こんな、ここまできておいて尾扇と同じ末路をたどってたまるものか。
「なにやつだ。名を名乗れ」
その声は、寝返り松永か。なぜここに。
「尾張から遣わされた玉鏡です」
「なにゆえ密使がここにいる。まさか……ここが奥座敷から隠し通路の出口と知って待ち伏せを……」
厠に来る理由などひとつしかあるまい。ましてや待ち伏せはそちらであろう。敵の要所を押さる。腐っても将であるということか。
——ぎゅる、ぎゅるぎゅるぎゅる。
「あ、あぁぅ、あっぐ……」
どん! どんどんどん!
右の手で腹を押さえ、左の手で戸を叩く。握った拳の中に手汗がにじんだ。痛い。このうえなく腹が痛い。
「先から無作法に戸を叩きおって。いったい何用だ。ことの次第によっては……」
どんっ!
もう我慢の限界だ。もう化けの皮を被っている余裕などない。
「ここを開けろと言っているのです! 早くなさい、噛み殺しますよ!」
割れんばかりに玉鏡は戸を叩く。腹がはち切れそうだった。
そのときだ。悪臭が鼻を衝いた。はっとして耳を澄ませる。暖簾の外から廊下をなにかが這う音がする。床を軋ませ、衣擦れの音が徐々に近づいてくる。
「……たまかがみぃぃぃ」
怨み辛みのこもった声。名を呼ばれ、玉鏡は不覚にもぞっとした。
どんどんどん!
玉鏡は戸を叩いた。もう時間がない。
「開けなさい! ぐっ、うぐぅ……早くここを開けなさい!」
早くしないと、間に合わなくなる。
「たまかがみぃぃ……、どこじゃ、どこにおるんじゃ……」
廊下から厠へ入る縁に手がかかった。もうすぐそこまで来ている。
どんどん! どんどんどん!
戸を叩く。もう他のことは考えられない。早くしないと、今にも顔を覗かせそうな所まで迫ってきている。
「そこかぁ……、そこにおるのかぁ……」
どんどんどん! どんどんどんどん!
「早く、早く開けなさい!」
「ならぬ」
「なるならぬの話ではありません! ぐっ、ふぐぅ、兎に角ここを開けなさい、さもないと」
「さもないと、どうなる」
そんなことを決まっている。
がっ、と足首をつかまれた。女の手とは思えぬ骨張った、石のように冷たい手だ。
「……けけけけ、惜しかったのう、玉鏡ぃ」
「ぎゃあああああああああああああ!!」
玉鏡は悲鳴をあげた。尾扇が、化け狸が足にしがみ付いている。死人のように青ざめた顔でこっちを見上げている。
「その声は美濃の。やはり貴様ら結託して平蜘蛛と我が領地を——」
「平蜘蛛など今はどうでもいいです! 戸を開けさない!」
どんどんどん!
「……ならぬ、開けてはならぬぞ。……けけけ、せっかくの狐が逃げてしまう、けけけ」
尾扇が這いあがってきた。ひいぃ、と情けない声を漏らす。足蹴りにして引き剥がそうとしたが離れない。しがみ付いて登ってくる。
「く、来るんじゃありません! 離れなさい!」
「……そう嫌がるな、直におぬしも同じ目に遭うのじゃから」
脅しではない。腹の調子は玉鏡自身が一番よくわかっている。ここまで無理を押し通して耐えてきたが、それももう限界だ。寄りにも寄って、こんなところで——。
どん、と戸が叩かれたのはそのときである。外からではない。音は内からだった。
「鎮まれ!」
戸の中の声が一括した。腹の激痛をも忘れるほどの覇気にあふれた声である。
「謀反 を盾に平蜘蛛と我が領地を狙い、密使が来たかと思えば仲間割れか。この松永弾正 、貴様を生涯気に入らぬと思っておったが、今この時をもって怖れる気さえ尽きたわ」
盗人猛々しいとは今のこの男をいうに違いない。戸の中の声は続けて言った。
「玉鏡、そして尾扇とやら。貴様らを遣わせた主に、あの天魔にしかと伝えよ!」
かちゃりと音がした。小太刀か、それとも鉄砲か。いずれにせよ不味い。この男——。
「この首、この平蜘蛛、共に貴様の目に触れさせぬ!」
ここで自害する気だ。
「ま、待ちなさい! 自害するならこの戸を開けてから……」
そこで玉鏡ははっとした。糞垂れ狸のせいで鼻が馬鹿になっていて気づかなかったが、厠に花火屋のような臭いが立ち込めている。
これは……火薬の臭いだ。
火薬袋でも持ってきたのか。だがすぐに違うとわかった。寝返り松永は言った。
鉄砲の音がし、厠が戸の内から火を吹く。ごおぅという音と熱気が居合わせた者を覆った。
「ぎゃあ!」
「へぶぅ!」
膨れあがった炎が厠の戸を蹴とばし、玉鏡と尾扇は壁を突き破って隣の部屋に転がる。ほこり臭い、蔵のような場所だ。だが兎にも角にも早く逃げねば火が屋敷中に回る。
起き上がろうと手を着いて、玉鏡は気づいた。
床に大量の黒い粉がこぼれている。俵のような黒塗りの壺が横倒しになり、黒い粉はその割れたところからこぼれていた。
さっきも嗅いだ、あの臭いがする。
となると蔵を覆いつくさんばかりのこの壺は火薬か。十や二十ではない。ここにあるすべてが——。
「あちゃ、あちゃちゃちゃ! 助けてくれ玉鏡、着物に火がついた!」
尾扇は尻に火がついて鶏のように駆けずり回っていた。火を消そうと袖で尻を叩いている。それを見て玉鏡はぎょっとした。
「やめなさい! はたいたら火が——」
はらりと、尾扇の尻から赤いものが散る。
ぼぉっと音がし、今度は悲鳴をあげる間もなく、緋色が裏松邸を包んだ。
◆
後世にも語られることではあるが、松永弾正は三度目の謀反の際、平蜘蛛にありったけの火薬を詰め、茶釜もろとも爆死したという。
そして、その場に居合わせ、化かし合いに興じていた化生 二匹の行方はようとして知れなかった。
(了)
あれは……。
代り映えのしなかった廊下の先に
思わず頬が緩む。まさか、このひと文字にここまで気分を高揚させられようとは。いまだ腹の痛みは引かない。しかし、ここまで来れば勝ったも同然。
暖簾をくぐり、ただひとつある個室の戸を開けようと——。
がたん。
開かない。
がたん、がたん。
押しても引いても戸はがただた鳴るばかり。内から
まさか——。
この期に及んで誰か入っているのか。
「ふぐっ……!」
思った途端、また腹が激しく痛みだした。波がきた。大波だ。ものが下ってきている。
どんどんどん!
玉鏡は戸を叩いた。誰が入っていようと引きずり出さねば。こんな、ここまできておいて尾扇と同じ末路をたどってたまるものか。
「なにやつだ。名を名乗れ」
その声は、寝返り松永か。なぜここに。
「尾張から遣わされた玉鏡です」
「なにゆえ密使がここにいる。まさか……ここが奥座敷から隠し通路の出口と知って待ち伏せを……」
厠に来る理由などひとつしかあるまい。ましてや待ち伏せはそちらであろう。敵の要所を押さる。腐っても将であるということか。
——ぎゅる、ぎゅるぎゅるぎゅる。
「あ、あぁぅ、あっぐ……」
どん! どんどんどん!
右の手で腹を押さえ、左の手で戸を叩く。握った拳の中に手汗がにじんだ。痛い。このうえなく腹が痛い。
「先から無作法に戸を叩きおって。いったい何用だ。ことの次第によっては……」
どんっ!
もう我慢の限界だ。もう化けの皮を被っている余裕などない。
「ここを開けろと言っているのです! 早くなさい、噛み殺しますよ!」
割れんばかりに玉鏡は戸を叩く。腹がはち切れそうだった。
そのときだ。悪臭が鼻を衝いた。はっとして耳を澄ませる。暖簾の外から廊下をなにかが這う音がする。床を軋ませ、衣擦れの音が徐々に近づいてくる。
「……たまかがみぃぃぃ」
怨み辛みのこもった声。名を呼ばれ、玉鏡は不覚にもぞっとした。
どんどんどん!
玉鏡は戸を叩いた。もう時間がない。
「開けなさい! ぐっ、うぐぅ……早くここを開けなさい!」
早くしないと、間に合わなくなる。
「たまかがみぃぃ……、どこじゃ、どこにおるんじゃ……」
廊下から厠へ入る縁に手がかかった。もうすぐそこまで来ている。
どんどん! どんどんどん!
戸を叩く。もう他のことは考えられない。早くしないと、今にも顔を覗かせそうな所まで迫ってきている。
「そこかぁ……、そこにおるのかぁ……」
どんどんどん! どんどんどんどん!
「早く、早く開けなさい!」
「ならぬ」
「なるならぬの話ではありません! ぐっ、ふぐぅ、兎に角ここを開けなさい、さもないと」
「さもないと、どうなる」
そんなことを決まっている。
がっ、と足首をつかまれた。女の手とは思えぬ骨張った、石のように冷たい手だ。
「……けけけけ、惜しかったのう、玉鏡ぃ」
「ぎゃあああああああああああああ!!」
玉鏡は悲鳴をあげた。尾扇が、化け狸が足にしがみ付いている。死人のように青ざめた顔でこっちを見上げている。
「その声は美濃の。やはり貴様ら結託して平蜘蛛と我が領地を——」
「平蜘蛛など今はどうでもいいです! 戸を開けさない!」
どんどんどん!
「……ならぬ、開けてはならぬぞ。……けけけ、せっかくの狐が逃げてしまう、けけけ」
尾扇が這いあがってきた。ひいぃ、と情けない声を漏らす。足蹴りにして引き剥がそうとしたが離れない。しがみ付いて登ってくる。
「く、来るんじゃありません! 離れなさい!」
「……そう嫌がるな、直におぬしも同じ目に遭うのじゃから」
脅しではない。腹の調子は玉鏡自身が一番よくわかっている。ここまで無理を押し通して耐えてきたが、それももう限界だ。寄りにも寄って、こんなところで——。
どん、と戸が叩かれたのはそのときである。外からではない。音は内からだった。
「鎮まれ!」
戸の中の声が一括した。腹の激痛をも忘れるほどの覇気にあふれた声である。
「
盗人猛々しいとは今のこの男をいうに違いない。戸の中の声は続けて言った。
「玉鏡、そして尾扇とやら。貴様らを遣わせた主に、あの天魔にしかと伝えよ!」
かちゃりと音がした。小太刀か、それとも鉄砲か。いずれにせよ不味い。この男——。
「この首、この平蜘蛛、共に貴様の目に触れさせぬ!」
ここで自害する気だ。
「ま、待ちなさい! 自害するならこの戸を開けてから……」
そこで玉鏡ははっとした。糞垂れ狸のせいで鼻が馬鹿になっていて気づかなかったが、厠に花火屋のような臭いが立ち込めている。
これは……火薬の臭いだ。
火薬袋でも持ってきたのか。だがすぐに違うとわかった。寝返り松永は言った。
この首、この平蜘蛛
と。鉄砲の音がし、厠が戸の内から火を吹く。ごおぅという音と熱気が居合わせた者を覆った。
「ぎゃあ!」
「へぶぅ!」
膨れあがった炎が厠の戸を蹴とばし、玉鏡と尾扇は壁を突き破って隣の部屋に転がる。ほこり臭い、蔵のような場所だ。だが兎にも角にも早く逃げねば火が屋敷中に回る。
起き上がろうと手を着いて、玉鏡は気づいた。
床に大量の黒い粉がこぼれている。俵のような黒塗りの壺が横倒しになり、黒い粉はその割れたところからこぼれていた。
さっきも嗅いだ、あの臭いがする。
となると蔵を覆いつくさんばかりのこの壺は火薬か。十や二十ではない。ここにあるすべてが——。
「あちゃ、あちゃちゃちゃ! 助けてくれ玉鏡、着物に火がついた!」
尾扇は尻に火がついて鶏のように駆けずり回っていた。火を消そうと袖で尻を叩いている。それを見て玉鏡はぎょっとした。
「やめなさい! はたいたら火が——」
はらりと、尾扇の尻から赤いものが散る。
ぼぉっと音がし、今度は悲鳴をあげる間もなく、緋色が裏松邸を包んだ。
◆
後世にも語られることではあるが、松永弾正は三度目の謀反の際、平蜘蛛にありったけの火薬を詰め、茶釜もろとも爆死したという。
そして、その場に居合わせ、化かし合いに興じていた
(了)