第15話 玉鏡の正体
文字数 1,325文字
「よいのですか」
なにを思い立ったのか、式神の少年は話途中で飛び出していった。もう背中も見えない。玉鏡は障子窓を閉め、座敷でくつろいでいる男に向き直る。
「急用を思い出したのだろう。私もよくやる」
あのまま往来にいては会話もままならない。詰めかけた人間の対処も面倒だ。しかし、それだけの理由で男を座敷にあげたわけではない。
「実は前々からお尋ねたいことがありましたの」
じっくり舐め回すように見ても掴みどころのない人間だった。だから単刀直入に問うことにした。
「なにゆえ、怪異譚など蒐 められているのです」
心底不思議だった。
長らく人の世を見てきたが、いつの時代、どこの国でも人間は妖怪変化を恐れ忌み嫌ってきた。ある朝廷などは意向に従わぬ人民を討ち、その者どもを土蜘蛛 という妖怪に仕立て上げたと聞く。
だというのに、この男は。
嫌悪も敵意も感じられない。顔も心も偽っていないのだ。
「それを訊きにわざわざ旅籠屋まで?」
「ええ」
首肯したが、本当のところは少し違う。
前の夜、遣いの白狐が牛鬼について嗅ぎ回っている男がいると報せをよこした。
玉鏡は警戒する心と同時に興味が湧いた。ひとつ顔を見ておいてやろう。旅籠屋へ足が向いたのもほんの気まぐれだった。
「それで、あなたの答えはいかように」
待っていると男が口を開いた。
「——見てみたいからだよ」
「はい?」
耳を疑った。
「こう見えて、まだ本物の妖怪を見たことがないんだ」
男は朗らかに笑った。
大層な理由など端から期待していなかったが、これは肩透かしどころではない。
見たことがないから見てみたい。
この男はそう言ってのけたのだ。
その目は節穴か。
侮蔑 の念が湧いた。
陰陽術を遣いながら、
こんな阿呆 どもに母上は正体を暴かれた挙げ句、殺められたのかと思うと、はらわたが煮えくり返った。
即刻その喉笛を噛みちぎってやりたい衝動に駆られた。だが堪えた。それでは生ぬるい。ならばと玉鏡は思い付きを口にする。
「なるほど。でしたらその望み、叶えて差し上げましょう」
「吉凶でも占ってくれるのか」
「まさか」
いちいち癪に障る人間だ。
「間もなく牛鬼が山を降りてきます。式神の用意はよろしいですか」
◆
女は人間ではなかった。
母も同じだ。名は知らない。産まれたとき、母はすでに石になっていたからだ。しかし人間どもが呼び、恐れた名前なら知っている。
玉藻前 。
あるいは白面金毛九尾 の狐。
かの大化生 は陰陽師に正体を暴かれ、逃げる折、背中に矢を受けた。垂れた血は浮き草 の漂う池に流れ、いくばくかの年を経て化生 へと変じた。
名を玉鏡草 という。
当然ながら人間の前で獣の耳と尾は隠している。尺八を吹くときも人気のない場所を選んでいたが、もう堪忍袋 の緒 が切れた。
夜の闇にまぎれずともよい。女は屋敷の裏手で白昼堂々尺八を奏でる。
竹筒から現れた白狐は、妖怪としての名を管狐 という。昨晩と同じその狐に、女は音色で命じた。
——行け、牛鬼を起こせ。
命じるや否や、管狐はあの少年が消えた山へ駆けていった。しばらくして木々の間から鳥たちが羽ばたくのが見えた。
なにを思い立ったのか、式神の少年は話途中で飛び出していった。もう背中も見えない。玉鏡は障子窓を閉め、座敷でくつろいでいる男に向き直る。
「急用を思い出したのだろう。私もよくやる」
あのまま往来にいては会話もままならない。詰めかけた人間の対処も面倒だ。しかし、それだけの理由で男を座敷にあげたわけではない。
「実は前々からお尋ねたいことがありましたの」
じっくり舐め回すように見ても掴みどころのない人間だった。だから単刀直入に問うことにした。
「なにゆえ、怪異譚など
心底不思議だった。
長らく人の世を見てきたが、いつの時代、どこの国でも人間は妖怪変化を恐れ忌み嫌ってきた。ある朝廷などは意向に従わぬ人民を討ち、その者どもを
だというのに、この男は。
嫌悪も敵意も感じられない。顔も心も偽っていないのだ。
「それを訊きにわざわざ旅籠屋まで?」
「ええ」
首肯したが、本当のところは少し違う。
前の夜、遣いの白狐が牛鬼について嗅ぎ回っている男がいると報せをよこした。
玉鏡は警戒する心と同時に興味が湧いた。ひとつ顔を見ておいてやろう。旅籠屋へ足が向いたのもほんの気まぐれだった。
「それで、あなたの答えはいかように」
待っていると男が口を開いた。
「——見てみたいからだよ」
「はい?」
耳を疑った。
「こう見えて、まだ本物の妖怪を見たことがないんだ」
男は朗らかに笑った。
大層な理由など端から期待していなかったが、これは肩透かしどころではない。
見たことがないから見てみたい。
この男はそう言ってのけたのだ。
その目は節穴か。
陰陽術を遣いながら、
目の前にいる本物
に気づきすらしないとは。安倍の血筋も堕ちたものだ。こんな
即刻その喉笛を噛みちぎってやりたい衝動に駆られた。だが堪えた。それでは生ぬるい。ならばと玉鏡は思い付きを口にする。
「なるほど。でしたらその望み、叶えて差し上げましょう」
「吉凶でも占ってくれるのか」
「まさか」
いちいち癪に障る人間だ。
「間もなく牛鬼が山を降りてきます。式神の用意はよろしいですか」
◆
女は人間ではなかった。
母も同じだ。名は知らない。産まれたとき、母はすでに石になっていたからだ。しかし人間どもが呼び、恐れた名前なら知っている。
あるいは
かの
名を
当然ながら人間の前で獣の耳と尾は隠している。尺八を吹くときも人気のない場所を選んでいたが、もう
夜の闇にまぎれずともよい。女は屋敷の裏手で白昼堂々尺八を奏でる。
竹筒から現れた白狐は、妖怪としての名を
——行け、牛鬼を起こせ。
命じるや否や、管狐はあの少年が消えた山へ駆けていった。しばらくして木々の間から鳥たちが羽ばたくのが見えた。