第41話 空亡

文字数 1,710文字

「——今から思えば、あれが禁忌だったのかもしれない」

 奇山先生は遠い昔を懐かしむような表情で言った。

「あれ?」

「この山に雪女がでるのかと尋ねた。きっと木々が噂して、山の神の耳に入ったのだろう」

 山の神は得てして嫉妬深い。
 容姿が優れないから等、()われは様々である。今でもいくつかの山は女人禁制であるが、その理由は女神である山の神が嫉妬し、入山者に災いを降らせるからだという。

「しかし、まさか女怪の名をだすだけでも逆鱗に触れるとは」

 (まじな)いをかけられたのかもしれない。
 そのせいであの女性との縁を絶たれたのだろう、と奇山先生は結んだ。

「そんなことが。でも先生」
「なんだ?」
「あ、いえ……」

 言うべきかどうか迷った。
 おれには、その女性が山の神だったように思えてならなかった。
 垂れ布の下でどんな顔をしていたのかは想像する他ない。しかし、他の女性に目移りした少年を、嫉妬深い山の神が果たして許すだろうか。

「今でも会いたいんですか」
「そうだな。もし会えたなら、そのときは私から妖怪の話を語りたかったのだがな」

 百鬼夜行を眺めながら奇山先生は言う。厄介な(まじな)いだ、と。

 …………。

 もしかしたら先生は(まじな)いで縁を絶たれたのではなく、妖怪を見えなくされたのではないか。そんなことを思ってしまう。

 奇山先生に連れられ、おれはいくつもの場所を旅した。
 山に牛鬼が出る村、金魚が幻を見せる川、竜宮に繋がっている温泉地。そこには確かに怪異がいた。けれども先生が怪異に会えた試しはない。

 現に今も隣にいる河童にすら気が付いていないのだから。

 百鬼夜行の中に垂れ布の女性はいない。しかし先生は行列を成す妖怪の名を挙げては、どのような妖怪であるかを語った。その語り口はどこか楽しげだった。

「どうかしたか」
「え?」
「さっきから私を見ていただろ。遠慮せずとも私は山の神のようにもの言いひとつで、(まじな)いをかけたりはしない」

 水を差すようなことでも、と訊きかけて言葉を呑む。今しがた遠慮はいらないと言われたばかりだ。

「その、奇山先生にも嫌いな妖怪がいるんだなって」

 三度の飯より妖怪を好み、噂や口伝の類があれば足を伸ばす。そればかりがこの人だと勝手に思っていた。しかし、おれが知らなかっただけで、この人は——

「……いるとも。あれがそうだ」

 奇山先生が顎をしゃくる。

 その先にいたのは屋根を越すほどの黒い大玉だった。木の骨組みに墨に浸けた紙を貼って(こしら)えたのだろう。道端に立てられた灯りに照らされてもなお、それは黒々としている。
 まるで影が形を得たようだった。

「あれも、妖怪なんですか」

 あんどんの付喪神かと思ったが、それなら琵琶や唐傘のように目鼻や手足が生えているはず。屋根上から半身を覗かせるそれは、ただひたすらに黒いだけの存在だった。

「空亡だよ」
「そらなき、ですか」
「百鬼夜行の最後に現れ、妖怪の痕跡を消す妖怪だよ。盗人が箒で足跡を消すのと同じだ。あれさえいなければ、私も旅ももう少し実りあるものになったのだが」
「でも、あれだけ大きいなら、空亡自身が見つかるんじゃ……」

 山にも川にも町にも、あれほどの巨体を隠しきれる場所はない。探さずとも見つけられそうな気さえする。

「きみも私も毎日あれを拝んでいるぞ」
「え?」

 おれはもう一度、空亡を見る。
 黒い大玉には顔も手足もなく、屋根上から覗く球体がゆっくりと動いている。あんなものは一度見たら忘れるはずがない。
 そう思っていると奇山先生が言った。

「太陽だよ。空亡とは百鬼夜行の背後から昇る朝日のことだ。あの巨体で妖怪が闊歩する夜の終わりを告げている」

 数えきれないほどの妖怪が通りすぎていったが、空亡の後ろに妖怪の姿はなかった。百鬼夜行はそこで終わっている。

 見物人たちもぞろぞろと帰りだす。隣にいた親連れの子どもは母親の腕の中で寝息をたてている。奇山先生が道を譲ると、子を抱いた母親は会釈して帰っていった。
 人がまばらになるのに促されて、おれと奇山先生も帰路につく。

 旅籠屋に戻る道すがら大通りを振り返ると、百鬼夜行のために立てられていた灯りもうなく、賑やかだった祭囃子もいつの間にか聞こえなくなっていた。

(了)
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