第21話 夢でなかったなら
文字数 2,094文字
後日、また遣いに行く用ができた。
用を済ませた帰り道、自分は行きとは違う道を選んだ。少し帰りは遅くなるが、前のように日を跨ぎはしない。
我ながら
古寺は同じ場所にあった。
仮に夢でなかったとしても、再び会えるとは限らない。あのときは夢でなかったと思った確信も今では薄らいでいた。
境内には好き勝手に草が生え、屋根は苔むし、柱は黒く変色している。
やはり人のいる所ではない。本堂を一周して、誰もいなければ、きっぱり諦めよう。そう決めて歩き出したときだった。
「あら、また雨宿りにきたのですか」
自分はまだ夢の中にいるのだろうか。だとしても、今はこのままでいたかった。
濡れ縁にいつか見た女性がいる。なにか言おうとしたが声がでなかった。
「冗談です。それで、今日はどうされました。まさか襤褸寺に参拝にきたわけではありませんよね」
もう仏像もありませんし、と女性は堂内に目をやった。
「じ、実は、先日のお礼をしに」
振り返った女性は目を丸くしていた。ものを言うより先に考えるべきだとわかってはいたが、それでも言葉が口を衝いた。
「あの、よければ、これを」
荷を解いて紐でくくられた包みを取り出す。
出先で買った栗羊羹だ。主人の好物なので土産にしようと思っていたが、そのことを知っているのは自分だけだ。
「甘いものは、お嫌いでしたか」
訊くと女性は少し間を置いて答えた。
「いいえ。せっかくですし、いただきます」
どうぞ、と女性は自分を堂内へ招いた。
◯
晴れていたので二人して濡れ縁に腰を下ろした。
深い紫をした羊羹を切り割ると、中からまん丸な栗が出てきた。さながら満月の浮かんだ夜空を、小さく切り抜いたようだ。彼女はそれをひと口大に切り、口に運ぶ。
…………。
女性を褒めるとき、立つ姿、座る姿、歩く姿をそれぞれ花に喩える。知ってはいたが、その字句を残した人と同じ心持ちになったのは初めてだった。
「食べないのですか」
「え……」
手元に目を落とす。切り分けて皿によそった羊羹はそのままになっていた。
「それとも、私の顔になにか付いていますか」
境内の緑を見たまま女性は言った。途端に火鉢のように顔が熱くなる。
「い、いえ、そんなことは。いただきます」
ひと口に羊羹を頬張った。餡の味も栗の味もわからないまま咀嚼する。
隣に座る彼女が、どんか顔をしているか気が気でなかった。横目を向けたくなる気持ちを必死に抑え、顔を正面に向けた。
皿を空けてからは彼女の淹れてくれたお茶を飲んだ。
また眠ってしまわないよう気を張った。どうにか間をもたせようと、自分は薬売りの仕事について語った。
「ーー
「足腰が丈夫なことくらいしか取り柄がありませんから」
先用後利とは薬の箱を客先に置き、使った分だけ後から代金を受け取る商法だ。置き薬のある家は山を越えた隣町にもある。見に行ってみなければ薬が使われているかもわからず、そのために自分は遣いに出されていた。
「あの、ひとつ訊いてもいいですか」
「薬なら足りてますよ?」
そうではない。
「なぜ、山奥の寺にずっと留まっているのです」
背後の部屋には下ろした荷物と深編笠がある。虚無僧は旅をする僧であり、道中宿をとることはあっても長居することはないはずだ。
「会わなければならない相手がいるのです」
「その人はここに?」
「いいえ。家を訪ねたのですが、留守だと追い返されてしまいました。ですからこうして、気長に帰りを待っているんです」
自分はその人物の素性が気になった。男なのか女なのか。歳の頃は。所帯はもっているのか。名前さえ聞けば、調べる手立てはある。
懸場とは薬を売りに回る地域のことで、その帳簿には売れた薬の数や種類の他に家の者の名前、家族構成、家の場所などが記されている。
「どうかしましたか」
「……い、いえ」
彼女の声を聞いて正気に戻った。
懸場帳はあくまで商売の道具だ。だというのに、それを私用で持ち出そうとする自分が恐ろしかった。
◯
西の空が赤い。そろそろ戻らないと、また店に心配をかけてしまう。帰り支度をしながら思った。
もしこれが、今生の別れになったら。
共にすごした時より、この先、共にすごせない時がとても恐ろしかった。
「あの……名前を、訊いてもいいですか」
そのとき彼女がなにを思っていたのか、自分には知る由もない。沈黙があった。どのくらい経ってか、彼女は徐に口を開いた。
「玉鏡です」
見初めたときと同じ、鈴音のような声だった。
「た、玉鏡殿」
「なんです」
「もしよろしければ……今夜、花火見物など一緒にどうですか」
問いかけに、玉鏡は空を見て西日に目を細めた。
雲ひとつない赤々とした空は晴れた夜の前触れである。今夜は満月になる、と言い添えようとしたときだ。
「せっかくですが、お断りします。夜道はなにかと危ういですから」
なんと返したかは覚えていない。ただ下手な作り笑顔で取り繕ったのは覚えていた。