第65話 寝返り松永

文字数 711文字

 あの男は天魔だ。寝返り松永は常々思っていた。しかし怖れよりも大きなものを胸の内に秘めている。

「……やはり気に入らぬ」

 裏松邸の奥座敷にて寝返り松永——松永弾正(だんじょう)(ふみ)の内容を思い出していた。

 平蜘蛛を差し出せば謀反(むほん)を許し助命する。
 謀反者は討たれるのが世の道理だが、それを除いても含みを感じさせる文だ。松永は感じずにはられない。

 第六天魔王であるこの身が、茶器ひとつで手を打とうと申しているのだ。低頭平身し陳謝せよ。そうのたまうあの男の顔が頭に浮かぶ。

 その傲岸不遜が気に入らなかった。

 事実、あの男が要求しているのは平蜘蛛だけではない。戦乱の世において名のある茶器は一国一城と等価値だ。茶器を渡せとは、すなわち領地を差し出せということだ。その理由もわかりきっている。

 あの男は先の戦さで火縄銃を用い、馬上の敵軍を壊滅させた。
 三段撃ち。まさに無双であった。だが、あの兵法には弱点がある。
 大量の火薬が要るのだ。
 座敷の隅にある壺を開け、中のものをすくう。黒い粉。この屋敷は、あの男も知らぬ隠し火薬庫なのだ。それを戦さのたびに松永がこっそりと運び出していた。

 しかし、密使が訪れた今となっては、ここも……。

 あとから美濃の蝮の娘も来た。いや、あれは蝮ではなく狸と名乗っていたか。同じく平蜘蛛を寄越せと申してきた。

 尾張へ戻るか。美濃へ逃げるか。

 否、美濃の蝮はあの男と裏でつながっていると聞く。なら、どちらを選ぼうと同じこと。
 松永は立ち上がった。その腕には名器、平蜘蛛を抱えている。

 最期の身支度を整え、力強く奥座敷の壁を押す。ぎぃと音がして襖一枚ほどの壁が開いた。
 先の見えない獣の腹のような通路が、壁の奥に続いていた。
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