第1話 序

文字数 832文字

「本当にそんなものでいいのか?」
 素で訊いてくる声に、思わずむっとしてしまう。
「……これが一番うまいんです」

 きゅうりの漬物に箸を伸ばす。これを白飯にのせて一緒に頬張るのがいい。こりっとした歯応えに、染み出してくるきゅうりの味。一度味わったら忘れられないとはこのことだ。

「先生こそ、そんなの食ってていいんですか」
「そんなものとは。海老天に失礼だろ」
 あんただって、おれの飯にケチ付けただろうが。

 男が食べているのは海老天丼だ。衣をまとった海老は二尾。この食事処で一番値のはる飯だ。金子(きんす)はあると聞いている。だから「好きなものを頼め」と言われて一番好きなものを頼んだ。
 けど、おれが気になったのは値段ではない。そう悠長に天丼を頬張っている余裕があるのか、と思ったからで——

「ああ! 見つけましたよ、奇山(きやま)先生!」
 二人して振り返ると、暖簾を捲った客がこちらを指差していた。他の客も何事かと目を右往左往させる。だが名指しされた張本人は。

「店主、勘定はここに置いておくぞ釣り銭はいらん。荷物は任せた瓜助、私は急用を思い出した」
 捲し立てながら男は残った海老天を咥えて窓から街道に飛び出す。まるで岡っ引から逃げる盗っ人だ。あるいは猿か。

「あっ、ちょっと、先生! いい加減に草稿あげてくださいよ!」
 追っ手も追っ手だ。わざわざ同じ窓から飛び出していかなくてもいいものを。

「……はあ」
 やっと静かになった。けれど、あまりゆっくりもしていられない。

 小皿を傾けて残りの漬物を白飯に乗せる。汁がまざって茶漬けのようになる。最近になって知った言葉で表すなら『これもまた乙』だ。茶碗の中身をかき込んで、おれは箸を置いた。

「はい、まいど」
 店主は二人分の勘定を確かめ、茶碗と丼を片付ける。その隣でおれは任された荷物を背負う。こちらも二人分で少々重くはあるが、持てないほどではない。これでも荷物持ちをしている身だ。

 思えばあの人——奇山先生と初めて会ったときも、こんな妙ちくりんな感じだった。

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