第8話 牛鬼について

文字数 1,127文字

 勝手にいなくなったことを叱られないか。宿屋に戻る道中、そんなことを考えて足が重くなった。
 しかし、部屋に戻ると奇山先生は「帰ったか」と漏らしただけだった。さっきから机に向かって黙々と書き物をしている。村で(あつ)めてきた口伝や噂を帳面に書き留めているという。
 なら、ちょうどいい。おれは気になっていたことを訊いてみた。

「ここの牛鬼(ぎゅうき)は山にでるんですか」

 道中で奇山先生は、この先にでる牛鬼はよそと違っていると話していた。

「そのようだな。初めて目にしたのは山に入った熊撃ちの猟師だった。それを皮切りに峠を越えようとした旅の者や、畑を(たがや)していた農家にも姿を見られている」
「でも、牛鬼は水辺の妖怪じゃ……」
「確かに牛鬼は川の淵や海辺に出没する妖怪だ。牛鬼淵や牛鬼滝と地名にその名が入っている。しかし、だからといって山と無縁なわけではない。山中にも川は流れているし、滝や池もある。山河を問わず、水のある所に牛鬼は姿を見せるのだよ」

 自然とお春に会ったあの渓流が頭に浮かぶ。浅い川底、石の上を流れる水、あそこにも牛鬼はでるのだろうか。
 奇山先生の指がぺらりと帳面を捲った。

「山に入った男衆が川で水を飲む牛鬼を見たという話があった。川原に魚の頭が落ちていて、そこから牛鬼の食餌処(しょくじどころ)と呼ばれている。他では夜半に畑が食い荒らされることが増えてきているという」

 お春の父親も言っていた。そのせいで野菜を分けてくれる百姓も減ったと。

「それも牛鬼が?」
「ああ、農家によれば猿や猪も降りてくるが、噛み跡が違っていたらしいぞ」
 山から水を引いている用水路を辿ってくるのだろう、と奇山先生は結んだ。

「しかし、きみが牛鬼伝説に関心をもつとは。意外だな」
「別に、関心なんてものは……」

 頭にあの一家の顔が浮かんで、おれは頭を振った。

「興味があるのなら、きみも訊いて回るといい。私もあちらこちらを歩き回ってみたが、にしてもこの村はいいぞ。旅人だと言えば誰もが懇切丁寧に私の言葉に耳を傾け、問うたことにも答えてくれて——」

 また始まった。この人は興が乗ると訊いてもいないことを延々と話し続けるのだ。おれはふんふん、と適当に相槌を打った。

「——ところで、虚無僧(こむそう)を見なかったか」
「こむ……」
 初めて耳にする言葉だ。

深編笠(ふかあみがさ)を被って尺八を吹く旅の僧だ」

 こんな風に、と奇山先生は部屋にあった籐籠を逆さにして頭に被ってみせる。頭の皿を隠すのにはちょうどよさそうだが、おれは首を振った。

「そうか」
「その坊主が、どうかしたんですか」

 すると奇山先生はしばらく前から村に虚無僧が泊まっていると明かした。牛鬼の被害を聞き付けて遠路遥々足を運んだのだとか。

「——でだ、なんでもその虚無僧は牛鬼除(ぎゅうきよ)けを売っているらしい」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み