第27話

文字数 4,857文字

 支配人の声が消えきらないうちに、飯桐の妻が自分のカードを表に向けた。私はふと、彼女の名前を知りたいと思ったが、黒いフードをかぶった外見同様、彼女の存在は曖昧模糊としていた。女性は結婚すると自分の名前を失ってしまうのだろうか? 妻、母、娘。そこから少しでもはみ出そうとすると、百合香の話してくれた「彼女」のように妨害を受けるのかもしれない。
「私は人前で話すのは得意じゃないけど、支配人から余興の話を聞いた時、それならうってつけのものがあると思ったの」
 ここにいる招待客は皆前もってこの余興を知っていたのだろうか? 私は椿をちょっとにらんだが、その白い頬がひくりと痙攣した以外、特別なことは何も起こらなかった。
 飯桐の妻はポケットから封筒を取り出した。所々に茶色いしみの浮いた封筒。一見して古いものだと分かる。
「私には三つ趣味があって、一つめが料理、二つめが刺繍、それで三つめが古い手紙集め。知らない人のために説明すると、有名な作家や映画監督、そうでなくてもいろんな故人の手紙を骨董屋で売っているの。知らない人の手紙なんて読んでもつまらないと思うでしょ? でも、年月をへた手紙には独特の魅力があって、誰かの私生活にふと触れてしまったような感じがある。本人は亡くなってからそれが読まれるなんて予想もしなかったでしょうけど、だからこそ一層身近に感じられるの」
 飯桐の妻は封筒を開くと、咳払いをしてから封筒同様に黄ばんだ便箋を取り出した。
「説明はこれくらいにして、これをそのまま披露しましょう」
「でも、それじゃ余興にならないじゃない」百合香が横から口をはさんだ。「知らない人の話じゃ役のヒントにならないでしょ? 私は昨日からあんなに頑張って用意したのに」
「鱗を貼るのを手伝ってあげたでしょ? 文句言わないで」
「でも」
「聞けば貴方にも分かるから。これが決して無関係な話でも、荒唐無稽な作り話でもないってことが」
 娘にそう告げると、飯桐の妻は便箋を手品師のようにさあっと一振りしてから読みだした。

 突然こんなお手紙を差し上げる無礼をどうかお許しください。私は尋常小学校を出たっきりの無教養な女で、この手紙にもどれだけ間違いがあるか分かりません。それでも、意を決して投函する、その意図を知っていただけたらと思います。何も好き好んでこんなふうに回りくどい書き方をしてるんじゃありません。ええ、この手紙をおしまいまで読んでくだされば、なぜ私がこんなものを認めたのか分かってくださるはずです。それにあの女がどんな悪鬼かも理解していただけると思います。一見天女のようですが、分かる者には分かるのです。あの蛾眉や切れ長な瞳は高貴な生まれに由来するものでなく、悪徳そのものの表れだってことが。
 私にだって人を哀れに思う心くらいあります。郷里に甥っ子がいましてね。まあ、お世辞にも綺麗とはいえない、他人様から見れば鼠の親玉みたいな顔なんですが、私には可愛くて可愛くて、お嬢様と初詣に参りました折にも、やっぱりその子の顔が一番に思い浮かぶんですね。やれ風車だのべんべん太鼓だのと送りつけて、もうこんなもので遊ぶ歳じゃないなんぞと叱られたりして……こんな無駄なことを書き連ねて貴方様のお時間を浪費してはいけませんね。お嬢様のお従兄弟君でいらっしゃる方に、あの女の正体を知らせることさえできればよろしいんです。
 要は、そんな私でさえあの女ばかりは許せないのです。さっきも申しました通り、私は無教養な女で経済や歴史なんぞにはまるでうといんですが、それでもお嬢様の乳母として恥ずかしくないよう、四十の手習でこうして文字の読み書きもできるようになりました。
 昭和の初めごろでしょうか、何でも雲上人がお金を預けている通称華族銀行なるものがあの金融恐慌で倒産し、それであの一家は無一文になったそうです。お坊ちゃんと思想を同じくするわけじゃありませんが、私がいわゆる無産階級なる者の出身だからでございましょうか、貧しい者の上に君臨していたお殿様お姫様の破産を耳にしても、お可哀想にと思うくらいで、その時は特に何の考えもございませんでした。ええ、あの女に会うまでは。
 華族様と一概に申しましても、やはりおのずから違いがあるのですね。旧堂上華族様は、お公家様気分がまだ抜けきらず、お付きをぞろぞろ五十人も従えて、寝殿造のお屋敷に住み、実際の経済の動きやからくりなんぞにはまるで無頓着、鍬をつかんで血まめを潰さなくともお金は空から降ってくると思ってらっしゃるんですね。これはお坊ちゃんからうかがった話ですから、やっぱり少し偏った思想が混じっているかもしれませんが。
 一方、うちのお殿様は先々代が無一文から築き上げた財産を大切にし、常に経済の動きに目を光らせてあの恐慌を乗り越え、ご長男を海外へ留学させて鉱山にも最新の機器を導入し……やはり、人徳というものでございましょう。あの女の一家が滅びたのも自業自得かもしれません。神様は天上界から人間の営みをながめてらっしゃるんですね。
 その後のことは、あの女がお屋敷に入る前からうかがっておりました。何でも立派な別荘を改築し、旅館とは名ばかりの、いかがわしい商売をしていたとか……結局父君は芸者と心中。厚顔無恥というか何というか、雲上人の気持ちは私なんぞにはとうてい分かりまねます。ですが、上のお坊ちゃんの心の内はいかばかりだったでしょう? ええ、私も存じ上げてるんです。お嬢様にまつわることで知らないことは何一つございません。上のお坊ちゃんがあの一家の父君の不倫の子で、まだ子宝に恵まれなかった時分、うちのお殿様が養子として迎えられたということを。あの一族から萌え出たとはとうてい思われない、ご気性の優しい、色の白い、まるで薔薇の花のような青年になられました。
 ですが、腹違いとはいえ妹は……あの薄茶色の瞳を、あの眼の動きを見れば分かりますよ。たとえそんな不幸がなかったとしても、遅かれ早かれ毒の花を咲かせていたに違いないんです。
 そうそう、その例の商売が噂になって……あの女の母親はわざと銀座で路面電車にぶつかって轢かれて死んだんですよ。何も人様に迷惑をかけるような死に方を選ばなくってもいいじゃありませんか。ひっそり溝川に身を投げるなり、梁に腰紐を結んで首をくくるなりすれば。そういう派手な死に方で人目をひいて、新聞紙面を賑わせたいってのがまた泣かせるじゃありませんか。浅草のレビューにでも出したいようなお題目ですよ。
 もし、今までこうして書き連ねてきたことを何も知らなくっても、私はきっとあの女の狭い額や、独特の目づかいや、口角までしっかり紅を引いた唇なんかで分かったでしょうね。どれだけ清潔なエプロンをつけても、そういう細かなところで正体が露わになってしまうんです。女というのは本来恐ろしく勘の鋭い生き物ですから。それなのに、うちのお嬢様ときたら……大きな瞳をほうっと開いて、まるで十年ぶりに幼馴染と再会したというふうな笑みを浮かべて、あの女をぎゅうっと抱きしめたんです……今思い出しても二の腕が粟立ちます。ええ、お嬢様は何も知らずにあの魔女をお屋敷に迎えてしまったんです。まるで観音菩薩のようなご慈悲でもって。
 初めは私もそう気に病む話ではないと軽々しく考えていました。女中仲間も気の毒に思う者の方がずっと多かったんです。本来なら、話しかけるのもためらわれるほどのお姫様ですから。
 ですが、下のお坊ちゃんの様子がおかしくなるにつれて……ええ、あの女はお坊ちゃんのおつきでもないのに、紅茶を頼まれただの、書き物の感想を頼まれただのと理由をつけてはお部屋に出入りしていたんです。それだけでも奥様のお耳に入れるには十分でしたのに、まあ、奥様もお嬢様に負けず劣らずのんびりした方で、気がついた時にはもう手遅れ。そうです。書生の説明によると、お坊ちゃんは大学の構内で読書会を開いていたところを特高に見つかり、そのまま連行されたとか……改悛の情を認めたうえで釈放となりましたが、翌日は新聞に「赤化華族」の見出しが大きく載りまして……もちろん、実名はふせられていましたが、知っている者にはすぐ誰それと分かるような書き振りでございましたよ。それ以降、お坊ちゃんは元気をなくされて、大好物のフルーツポンチにも手を出されなくなってしまいました。立派な書物机にもたれて、昼日中から葡萄酒を召し上がるばかり。かたわらにはいつもあの女がいて、慰めと称して西洋の詩なんぞを朗読しているのでございます。これがこの女の計略でなくて何でございましょう?
 私の心配をよそに、お屋敷でのあの女の名声は高まるばかりでございました。そのころになるともう煮炊きなんぞは他に任せてしまって、自分は銀の盆で悠々と配膳するのです。それさえもお嬢様やお坊ちゃんのお声がかかるとよしてしまいます。私は一度、自分の目を疑うような光景に出くわしたことがありますよ。あの女がエプロンを外し、サンルームの籐椅子にもたれてお嬢様と紅茶やシュークリームを楽しむ様子ときたら……それにもまして私の胸を締めつけたのはお嬢様の表情でございます。陶製人形のようにすべすべした頬をほんのり紅色に染め、鳶色の瞳をきらきら輝かせて、ご自分の指を意味もなくもんだり爪をいじったり……それはお誕生日やクリスマスにしか見られない、本当に嬉しい時の癖ですから。
 そうして、私にとっては決して忘れることのできない一夜がやってまいりました。
 これは後から書生に聞いた話と継ぎ合わせ、私なりに納得のゆくまで考え抜いた結論でございます。昼間、私は旦那様から夕方までに書斎の暖炉に火を入れておくようにと申しつかっておりました。後から考えてみますと、旦那様はこの時北海道の新規鉄道事業にかかわる大規模な投資を検討中だったのでございます。しかし、私の方にあれこれと急用ができてしまい、気づいた時にはもう申の刻を過ぎようとしていました。それで慌てて書斎へ走ったら、何とあの女がいるじゃありませんか。しかも、私に気づくと突然ペンを放り出し、小さく畳んだ紙をひょいっとエプロンのポケットにしまったのです。そう、あの女は旦那様が購入を予定していた鉄道敷設予定地の地図を確かめ、こっそり番地を記していたに違いありません。そして、それをほかの誰かに……私の勘が当たっているなら、例のいかがわしい旅館の顧客にでも高く売りつけたのでしょう。結果、鉄道は予定とは異なる場所に敷設され、旦那様は荒地同然の、耕作にすら向かない土地の大地主となってしまったのでございます。
 これに続く数々の不幸は、偶然の連鎖が生んだものか、あの女が私にも分からないほど巧妙に仕組んだ罠なのか分かりません。調べようにも、警鐘を鳴らす忠義者は疎んじられ、佞者ばかりが重んじられるこのご時勢でございます。旦那様が起死回生を狙って大陸で行った先物取引の失敗、奥様の急逝、上のお坊ちゃんの遁走……これがあの女が疫病神である何よりの証拠ではありませんか?
 唯一、瞳をぎらぎらさせ、唇を赤く染め、必死で一家を盛り上げようと頑張っているのがお嬢様ですが、私にはそれが嫌な兆候に思われてならないのです。元々決してお体の丈夫でないことは、乳母であるこの私が誰よりよく存じあげております。どうか、お医者様に診ていただくよう貴方様からご説得いただけないでしょうか? 私の言葉など笑うばかりで相手にしてもらえないのですが、どうもお体の調子が良くないように思われるのです。そして、どうかあの女の所業についても、探偵を雇うなりしてお調べ願えませんでしょうか?
 私の小さな頭はお嬢様のことでいっぱいです。ただお嬢様の幸福のみを願いながら……罫線が霞んで見えなくなってまいりました。どうかどうか、この老女を哀れと思いなし、悪辣な者をこの屋敷から追い出し、お嬢様の今後をお支えくださいませ。
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