第22話

文字数 2,113文字

 そこは煉瓦の壁に囲まれた秘密の隠れ家、紳士淑女のための撞球場だった。
 湿っぽい坑道じみた地下室を期待していた私はちょっと落胆したが、むしろこれが普通なのかもしれない。きっと、画家は絵を描くことに疲れるとビリヤードで気晴らししたのだろう。こんな地下室を作ったのも悪戯心と稚気のなせる業だ。
 部屋の中央には緑色のフェルトが貼られたビリヤード台があり、その脇にキューが立てかけられている。目立つ家具は酒瓶の並ぶ硝子棚くらいだ。
 その棚の手前に屏風の片割れ、龍神と巫女の落とし胤が描かれた一隻が立てられていた。
 私は屏風に歩み寄り、かすかなかびの匂いを嗅ぎながらそれをながめた。
 緑青で彩られた異様な生物……河童とも、青鬼ともつかない妖怪たちが画面中にひしめき合っている。手には水掻きがあり、腕には鱗が生え、瞳は金色に輝いている。しかし、彼らは楽しそうに酒を飲んでいるわけでも、踊っているわけでもない。村の男たちが着物の裾をからげて松明や鍬、猟銃を手に襲いかかってくるのだ。妖怪たちは頭をかばい、まろびつつも必死で逃げ惑っている。村人に捕まった妖怪は鉈で頭をかち割られ、首から血を吹き出し、裂かれた腹を天にさらし、桃色の臓物を地面にこぼしている。顔を近づけると、流れ出たおびただしい量の血の匂いが漂ってきそうだ。
「ロビーに飾れないわけだ」椿はそう言ってため息をついた。「それにしても……この妖怪たちはみんな龍神の子ども?」
「孫かもしれない」
 私は画面の左方を指した。そこには茅葺き屋根の家があり、ほかの妖怪よりも一回り大きな緑色の怪物が仁王立ちになっている。鱗模様の青い着物の胸元がはだけ、そこから雲母の鱗がのぞいている。水面に似た細やかな光を放つその鱗は、右方をきっと見すえた鋭い金色の瞳と対照をなしている。
 濡れ縁に座り、顔を緋色の袖で覆っているのは新しい生贄だろうか? それとも、彼が酒呑童子のようにさらってきた村娘だろうか? どちらにしても変わりないのかもしれない。ただ足下に転がった酒杯は、村人の襲撃が思いがけない事態だったということを告げている。
「龍神の血は、村人の中に混じりこんだのかもしれない」
 私がそう言うと、椿はふっと瞳を揺らして私を見つめた。
「この中に生き残った半神がいるってこと?」
「『古事記』や『日本書紀』もそういう歴史を伝えているでしょ? 新たな神々が現れて、そこに住んでいた古き神々を駆逐し、その地神の娘を妻として娶る。争いは絶えなくても、血が絶えることはない。きっと、龍神の血は子孫に受け継がれて……」
「子孫の体内で謀反を起こす」
「謀反?」
 椿は屏風の右下を指した。村人が妖怪の死骸の脇に屈み、何やら奇妙な作業をしている。彼は包丁を手にし、死骸の頭部から白子のような脳を取り出しているらしい。
「描かれたからにはその理由があったはず」椿はきっぱりとした口調で言った。「村の歴史を残すために」
「村の歴史って……この土地に古くから住んでいた人たちを追い出したってこと? でも、それならここまでグロテスクにする? 山賊が土下座してる絵でもよかったのに」
「画家の中でその血が謀反を起こしたからでしょ」
「さっき話してたホテルの創始者?」
 椿はゆっくり腰を起こすと、酒瓶が並んだ棚の扉を開いた。
「誰の体にも、多かれ少なかれ異様な血が流れている。そして、沸き立つ時を待ってるの」
 椿はウイスキーの瓶を数本つかんでビリヤード台に置き、棚の奥を探りだした。
「何してるの?」
「異様な血を探してる」
「お酒のことを言ってるの? 飲みたいなら紫苑さんに頼めばいいのに」
「お酒はお酒でも普通のじゃない。いわゆる霊酒……ネペンテスっていえば撫子にも分かる?」
「オデュッセイアに出てくる『憂いを忘れる酒』のこと? あれは阿片入りのお酒だよ。探しても無駄でしょ」
「神話には詳しくても、現実がどれだけ出鱈目かは知らないんだ。阿片なんか戦前は気軽にいくらでも処方されてたのに」
「ちょっと待って。何かおかしい」
 私は椿が取りのけたウイスキーの瓶をながめた。どれも安そうなものばかりで、その中に一本だけ、蓋の縁にどろりとしたものが付着したものがある。
 ためしに蓋を開けてみると、嗅いだことのない植物的な刺激臭がした。
「このホテルの宿泊客は贅沢だから変だと思ったの。これならお酒を飲まない私でもスーパーで見たことがある。でも、この瓶の中身は……」
「誰かが復讐者を恐れて毒を隠し持ってるのかもしれない」椿はまた謎々じみたことを言った。「最後には、ハムレットは毒を塗った剣で傷つけられる。でも、その毒の剣を用意した者も毒の杯を飲まされて死ぬの」
「オフィーリアだけじゃなく、ハムレットの叔父のクローディアスも探せってこと?」
「そう」椿はウイスキーの瓶を揺らして笑った。「そもそも、これを使って王位を簒奪した人物は?」
「誰かを中毒にして苦しめたの?」
「つまり、自分が中毒に苦しんでいる人」
「アルコール依存症なら」と私は言った。「飯桐さんが一番怪しい」
「馬鹿だね」椿は笑みを深めた。「依存症にも色々あるでしょ? 何もお酒だけが人を狂わせるわけじゃない……」
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