第43話

文字数 1,995文字

 私は手にした非常灯でスダジイの根元を照らした。地面は最近掘り起こされたばかりというふうに見えたが、それが人の手によるものか、野犬の仕業か判然としない。雑草が生えていないのは人間の墓にはあまりにも狭いスペースだ。鬱蒼と茂ったスダジイのせいで草が芽吹かないだけかもしれない。
 支配人から受け取った鍵で櫓のドアを開き、壁を探って明かりを灯す。すると、本に囲まれた螺旋の世界がふうっと息をつくように姿を現した。私は机の引き出しから秘密箱を取り出し、再びそれを開いてもう一つの鍵を手にした。
 床に敷かれた毛皮を取りのけ、小さな扉の鍵を開く。それから、以前と同じように薄暗い階段を下りてゆくと、赤煉瓦の壁に囲まれた撞球場にたどり着いた。深緑色のフェルトが貼られた台も、酒瓶の並んだ棚も変わらない。
 私は屈んで屏風をながめた。椿はこの屏風とロビーに飾られている屏風は二隻で一双だと言っていた。本来なら対で飾られるべき屏風なのだろう。しかし、自由度の高い屏障具は持ち主の思い通りに動かすことができる。ロビーの屏風には右方に龍が、左方に生贄の巫女が描かれている。撞球場の屏風の右方には村人に追われて逃げ惑う妖怪たちの無惨な姿が、左方には平穏な生活が今にも破られようとする半神と、彼に付き従う女性が描かれている。
 ふと、私の脳裏に金色の瞳が浮かんだ。あの金色は龍の目玉だけでなく、巫女の目尻もほんのりと彩っていた。あのぎょろりとした目玉がある位置をこの屏風に重ねるなら……私は屏風に近づき、宙に浮かせた人差し指を滑らせていった。すると、頭をかばいながら走る妖怪で指が止まった。よく見ると、この妖怪は不思議な模様の着物をまとっている。臈纈染めで白く染め残された部分は、巨大な人間の横顔のような線を描いている。
 私はさらに屏風に顔を寄せた。そのまま視線を左方へ走らせると、巫女の瞳がある辺りに半神の妻がいる。彼女が着ているのは優美な着物で、その裾にも奇妙な刺繍がほどこされている。それは魚の下半身で、水色の鱗模様と虹色の尾が縫われていた。
 妖怪の着物には人間の上半身、人間の着物には魚の下半身。
 次の瞬間、私は夢で見た光景を思い出した。
 あの時、青年は不思議な人形を取り出し、私にこう語りかけた。

 確かに、愚かな人間にはそう見えるだろう。もっとも、それさえ気づかないやつも大勢いるんだ。眼鏡をかけた紳士に憧れる連中がな。だが、その下半身には獰猛さが宿っている。そして、問題はそれが一つのものだと認識できるかどうかなんだ。

 私は撞球場を後にすると、再びアトリエに戻って机と向き合った。赤や白、青の絵の具がこびりついたポロック風の机。それから、その三番めの引き出しを開けた。
 中には細長い黒檀の箱が眠っていた。蓋を開くと、夢で見た通りの木彫りの人形が綿に包まれて横たわっている。上半身は燕尾服をまとった紳士で、下半身は剛毛に覆われ、ふさふさした黒い尻尾が生えている。
 この紳士と黒い犬が「一つのもの」だとしたら、彼は人間の皮をまとった悪魔なのだろうか? それとも、人間そのものが内部に獰猛性を宿しているという隠喩だろうか?
 私は人形をつかんだままアトリエ中を歩き回った。テレピン油の匂いが頭を痺れさせ、色とりどりの本の背表紙がチカチカと点滅し、本棚ごとぐるぐる回っているような気がする。私はこの櫓という螺旋を上っているのだろうか? 下りているのだろうか?
 気がつくと、目の前に等身大の人形が立っていた。もちろん、人形の方が歩いてきたわけではない。絵画を収めた棚の隅に人形があったというだけだ。
 それは不思議な人形だった。古代アナトリアのキュベレー信仰を思わせる地母神らしき造形で、黒檀の艶々した肌と柔らかにうねる長い髪を持ち、体中に葡萄の房のような乳房を実らせている。右手には麦の穂、左手には葡萄酒の入った杯を手にしている。これも画家の作品だろうか?
 私は黒い女神を見つめた。女神は白蝶貝と黒曜石の瞳で私を見つめ返した。燕尾服を着た紳士。黒い犬。大地の女神。半人半魚の妖怪……。
 その時、再び懐かしい声が私の鼓膜を震えさせた。

 上と下が異なっている。これが全ての誤解の始まりなんだ。

 私は黒い女神に歩み寄り、その腹部に触れた。葡萄の房状に膨れた腹には浅い溝が走っている。爪をかけると、とても小さな扉が開いた。その奥には瓢箪形の凹みがあり、複雑な形状の突起物が並んでいる。私は手にした人形を黒い女神の腹部に押しこんだ。
 どこかでガチャンと鈍い音がして、大小のキャンバスが地震でもあったように軽く震えた。私は棚を押したり、引いたり、持ち上げてみようとさえした。
 しかし、結局棚は微動だにせず、私は息をついて女神像の前に座りこんだ。
 振り返ると、ステンドグラスが淡い光を投げかけ……床にある四角い穴を浮かび上がらせていた。
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