第4話

文字数 2,302文字

 シルクシフォンの海に溺れながら、鏡台の前でドレスと自分の顔とを見比べてみる。すると、一見派手に思えたピンク色は、案外私の肌色となじんでいることが分かった。やはり、これを選んでくれたのは椿に違いない。
 私は旅行鞄から小さなベルベットのケースを取り出し、ピンクサファイアのカトレアがついたネックレスをてのひらにのせた。同じ種類の花とまではいかないが、色合わせは悪くないだろう。就眠用に持ってきたキャミソールを着て、ドレスをまとい、このネックレスをつけて……あとはエナメルのピンクベージュのヒール靴。
 どこからか、風のうなりのような音が聞こえてくる。
 ごぅ、ごお、ごぉぉ……。
 私はドレスを手にしたまま部屋のあちこちを見回した。カーテンは開いているが、窓はしっかりと閉まっている。そういえば、椿はさっき何をながめていたのだろう? しかし、硝子の向こうには中庭の緑が広がっているだけだった。
 ご、ごぅ、ひぃぃ……。
 奇妙な音はまだやまない。バスの換気扇でもないし、ドアに耳をつけても何も聞こえてこない。
 私はベッドの反対側にある暖炉に歩み寄った。到着前に火を熾してくれたらしく、炎は薪を黒く染めながら透明な赤い舌を揺らめかせている。時折炎のはぜる音や、薪の崩れる音はするが、不思議な音とは種類が異なっている。
 それから、私はライティングビューローの横にあるラジエーターヒーターの存在に気づいた。暖炉があるのに、なぜヒーターも設置されているのだろう? もしかしたら、大正の初めごろにはこれが最新の設備で、火を使わずに部屋を暖められるというのがうりだったのかもしれない。しかし、時代が流れて暖房器具が珍しくも何ともなくなってしまうと、今度は暖炉の方がゆかしく思われるようになったのだろう。
 ラジエーターヒーターの柵は凝った作りで、鉄製の柵は柔らかな波を描き、その所々に貝やヒトデの飾りがついている。部屋にちりばめられた薔薇の意匠とは相反するようだが、鋳物師の趣味かもしれない。私はその柵をつかんでみた。未使用のヒーターの柵は冷たく、掃除が行き届いてほこりも立たない。次の瞬間、てのひらに湿った風が触れた。
 金属の冷たさを勘違いしただけだろうか?
 私はヒーターの柵に顔を寄せてみた。風が流れてくる気配はない。しかし、遠く、まるで地の底から響いてくるような低い音がする。
 お、おおおお、お……。
 風が狭い場所を吹き抜けてゆく音。
 あるいは、得体のしれない生き物の叫び声のような……。
 慌ててヒーターのそばを離れると、まるで他人のような自分の横顔が鏡に映った。
 人は鏡を見る前に表情を作るものらしい。目を見開き、唇から歯がのぞいたその顔は私の知らない「誰か」だった。しかし、そう思って鏡を真正面から見つめると、今度は自分の知っている顔が映る。
 私は小さく息をつくと、ブラウスを脱いでピンク色のシルクの海に飛びこんだ。全く重さを感じさせない、花びらを重ねて作られたようなドレス。再び鏡を見ると、化粧直しもしていないのに頬が上気している。それから、私はネックレスを留めようとうつむいた……その瞬間、鏡に見知らぬ女性が映った。
 今度は見間違いじゃない。私の顔はちゃんと大きく映っている。しかし、その背後に袖の膨らんだ真っ白なワンピースを着た少女が立っている。
 十四、五歳くらいだろうか。私より一回りほど歳下に見える。額の中央から分けた黒髪を腰までのばし、胸の辺りを手で押さえている。その瞳は大きく開かれ、鏡越しに私が見ている間も瞬きをしなかった。
 彼女もおびえているのだ。そう気づくと同時に、私はまたふっと息をついた。
 私の表情が和んだことが分かったのだろう。彼女も肩で息をし、青白い頬に笑みの片鱗のようなものを浮かべた。
「ごめんなさい」澄んだ声で彼女は言った。「部屋を間違えちゃったみたい」
 そういえば、フロント係の青年と椿が出て行った後、私はドアに鍵をかけなかった。クラシックホテルだということを忘れていたらしい。サイドテーブルに投げ出されたルームキーを見て私は微笑んだ。
「こっちこそ、オートロックだと思いこんでたみたい。ここは250号室」
「そう」彼女はまるで台詞を読むように答えた。「私は249号室」
 それから、私が奇妙に固まった姿勢でいることに気づいたのか、彼女は歩み寄ってネックレスを留めてくれた。その指先はなぜかヒーターの柵よりも冷たかった。
「貴方たちが最後のお客さん」鏡の中の彼女は笑った。「これで八人そろったね」
「八人?」
 振り返ると、彼女の顔はほとんど息が触れそうな場所にあった。
「支配人が考えたお遊び。貴方たちが来るのを待ってたの」
「ああ。例の余興のこと」
 彼女は私をまっすぐ見つめたまま笑みを深めると、アラバスターの彫像のように繊細な手をこちらへのばした。
「私は百合香。よろしくね、お隣さん」
「こちらこそよろしく。私は……」
「撫子でしょ。知ってる」
 奇妙な違和感を覚えながら、私は百合香と握手をした。
 よく考えてみれば、宿帳に自分の名前を記しているのだ。廃館間近で従業員の減ったクラシックホテル。暇を持て余した少女が、それを勝手にのぞいたとしても不思議はない。
 問題は、なぜ私が椿ではなく撫子だと分かったか。それでも、その答えも鏡の中にきちんと描かれている。
「それじゃ、また後で」
 百合香は私の当惑を楽しむように声を立てて笑い、くるっと回ってから部屋を出て行った。
 百合香の脚は不安になるほど細く、青白い血管が紫陽花の葉脈のように浮き出ている。なぜか裸足の爪先が、今洗ったばかりというふうに艶々していた。
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