第18話

文字数 3,024文字

 通りの先には丸太を組み立てた櫓があり、その頂で神楽が舞われているらしい。大太鼓だけでなく締め太鼓、横笛や鉦の音が響きだすと、犬や狐のお面をつけた人たちもそちらを見上げた。
 神社の神楽殿でもなく、ましてや舞処でもないから、切り紙細工の天蓋もなければ楽屋を隠す幕もない。その代わり、青い鱗模様の衣装をまとった太夫の頭上には茜色の空が広がっている。空は紅玉髄のようにもわっとして、神楽の音色を包み、かつ反響させている。遠くてよく見えないが、舞手は黒い龍のお面をつけているらしい。左手に榊を、右手に扇子を持ってゆったりと舞っている。大口袴の裾が閃くたびに、夕陽を受けた榊の葉も赤銅色に輝く。扇子には雪をかぶった松が描かれているようだ。
 私は人波をかき分けていった。滝を見るときと同じだ。音が深まるにつれて鼓動が速まってゆく。葉の落ちた樹々の隙間から白い水の流れがのぞく……そんなふうに、浴衣の肩越しに黒曜石のようなお面がちらりと見えた。
 龍のお面には不思議な模様が刻まれている。組紐文のような、渦文のような……あれはどの博物館に陳列されていた彫像だったろう? 古代シュメールの神話に出てくる森の守り神フンババも、こんな迷路状の縞が刻まれた顔だった。
 櫓の周囲は人だかりでむしろ舞手が見づらくなった。酔うような笛の音が鼓膜を震わせるばかりだ。
 諦めてその音色と別れようとした時、櫓の下部にある扉が視界に入った。
 丸太を組み立てただけの櫓に、なぜこんな扉が必要なのだろう? どうせ頂へつながる階段は四方から丸見えだし、隠すべきものもないのに。
 好奇心には逆らえず、私は流れ星を待つように空を仰ぐ人々の間を縫って進んだ。その扉はなぜか少し湿っていて、鍵はかけられていなかった。取手をつかんだだけで他愛なく口を開け、ぬらりとした内奥をさらけ出した。
 落ちてゆくのか、昇っているのか。
 気がつくと、私は螺旋状の書棚に囲まれた円い部屋の中央に立っていた。そして、やはり隕石を探すように上空を仰いでいた。
 目を凝らしても、天井は霞んでぼんやりとしか見えない。穹窿の黒っぽい梁が遥か彼方に望み、その下方に色とりどりの書物を詰めこんだ本棚が並んでいる。そして、白い石英のような螺旋階段が中央を貫いていた。
 私の視線がふっかりとした葡萄酒色の絨毯に落ちると、それを待っていたように誰かが口を開いた。
「間抜けな顔だ。人の書斎に勝手に忍びこんでそれはないだろう」
 振り返ると、青年が半円形の大理石の机に頬杖をついていた。彼はややうつむき加減で、その鋭利な瞳を私に向けていた。
「そんなつもりはなかったんです」私はやはり間抜けな声で答えた。「どうして、こんなところへ来たのか自分でも分からないんです」
 その言葉は青年にとって心外だったらしい。彼は無言で片方の眉を吊り上げた。私は慌てて言い募った。
「それじゃ、どうすれば?」
「そうだな……例えば、黒い犬に化けて忍びこむとか、深夜に音も立てずに硝子を割って侵入するとか」
 青年がそう言って振り返った先には、幾何学模様のステンドグラスがはめこまれた窓があった。しかし、その硝子の一片一片は細い鉄線に囲まれ、どう考えても人が忍びこめる場所ではなかった。
 自分の失策に気づいたのか、青年は少し頬を赤らめて眉間を狭めた。まるでそんな馬鹿な発言をさせたのは私だと言わんばかりに。鏡がそこにあったなら、きっと青年と同じ表情をした私が映ったことだろう。しばらく躊躇したすえに、私は大理石の机にパンとジュースの入った紙袋を置いた。そこには顕微鏡や、不思議な文字で書かれた書物や、黄土色に変色した人間の頭蓋骨らしきものが並び、皺だらけの紙袋は明らかな闖入者だった。
 しかし、予想に反して青年は笑顔になり、その紙袋を素早く開けた。
「なんだ。××××か」
 不平そうな言葉とは裏腹に、彼は桃色のじゃがいもらしきものと怪しげな肉のサンドイッチを鷲づかみにした。
「今、何て?」
「××××だろう?」
 青年は同じ言葉をくり返したが、喉がくすぐったいのを堪えているようなくぐもった音で、私には聞き取ることができなかった。屋台の店員が口にしたのと同じ単語らしい。
 青年は平気な顔でパンをかじった。血色の良い唇がその均衡を崩し、唾液で光る舌がちらりとのぞく。私はそこから視線をそらしたいのにそうできなかった。喉仏が小さな生き物のように上下に動き、唇からかすかな吐息が漏れる。私の指はつるりとした頭蓋骨に触れ、そのひび割れをなぞりだす。
 机の後ろにある棚にもやはり不思議なものが飾られている。水晶の生えた晶洞がのぞく瑪瑙。天体儀。硝子瓶に入った緋色の鉱石。私の視線に気づいたのだろう。青年は悪戯っぽく笑って言った。
「それを開けるなよ。鶏冠石。ヒ素の硫化鉱物だ」
「言われなくても開けません」
「そうだ、××××のお礼に教えてやる」
 青年の眼の下には小さなほくろがある。それがとても大切なことのように思えるのに、なぜ大切なのかは思い出せない。ただ彼の声は音楽に似て、誰か……靄の彼方にいる人を連想させる。
 青年はちょっと笑って引き出しを開けると、手品師の優雅さで縦長な黒檀の箱を取り出し、机の上にそっと置いた。中で眠っていたのは古びた木彫りの人形だった。上半身は燕尾服をまとった紳士で、下半身は黒い毛に覆われ、ふさふさした黒い尻尾が生えている。
「いいか」青年は人形を指して言った。「上と下が異なっている。これが全ての誤解の始まりなんだ」
「でも」私は笑みを浮かべた。「その人形はどう見ても異なってますよ」
 青年は私をひとにらみすると、何もなかったように話し続けた。
「確かに、愚かな人間にはそう見えるだろう。もっとも、それさえ気づかないやつも大勢いるんだ。眼鏡をかけた紳士に憧れる連中がな。だが、その下半身には獰猛さが宿っている。そして、問題はそれが一つのものだと認識できるかどうかなんだ」
「よく分かりませんが、資本主義経済の隠喩ですか?」
「やっぱり馬鹿だな」子どものように大袈裟に顔をしかめて青年は言った。「例えば、世紀末芸術は資本主義経済の落とし胤だろう。だが、彼らが刺激を求めたのはそもそも宗教というものが根源にあって、それが彼らを内心から断罪していたせいだ。その概念が雲散霧消して、人間が本当に個人として生きるとしたら?」
「どうせ何かにすがるでしょう。スポーツ選手みたいな英雄か、俳優みたいな偶像か、オカルトか、拝金主義か……」
 そう言いかけて、私はひたりと口をつぐんだ。
 私は一体何を話しているのだろう?
「まず気づくことが重要なんだ」青年は私の目をのぞきこんだ。「一歩めはそこから。早く始めないと……」
「抽象的でよく分かりませんが、要するに下方を見ろってことですか?」
 青年は無言のままうつむいた。長いまつ毛に縁取られた瞳が揺れて、震え、小石を投げた水面のように乱れてゆく。
 彼は半ば無意識にひび割れた頭蓋骨をなでている。可愛がっているペットにしてやるように、ひどく優しく。
 その微笑みは、彼がもう生きている人間には向けられなくなってしまったものかもしれない。華奢な指は執拗に黄土色の頭蓋骨に触れ、口づけでもするように顔を寄せている。
 もしかしたら、これは彼自身の頭蓋骨なのだろうか?
 霞んでゆく意識の中で、私はそう思っているが、この思考さえすぐに溶け出して、跡形もなく……。
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