第13話

文字数 1,911文字

 さっきから椿が休みたがっていたのにはきちんとしたわけがあったらしい。彼女はおもむろに起き上がると、クローゼットの一番下にある引き出しを開け、畳紙に包まれた着物を取り出した。
 樟脳の香りとともにしゃりしゃりした、それでいて柔らかな錦紗の生地が現れる。夕方の雲のように淡い桃色の腰紐や、目が痛くなるほど細かな刺繍のほどこされた帯。私はため息をついて椿を見上げた。
「これ借りられるの?」
 すると、椿は別の質問で私に答えた。
「中にタンクトップ着てるでしょ?」
 椿は洗面所からタオルを持ってくると、私のカーディガンを脱がせにかかった。
 それからはちょっとした格闘だった。といっても、椿が慣れた調子で着付けをしてくれたから、私はただ鏡台の前に立って腰にタオルを巻かれたり、萎びた蝶々のような袖に腕を通したり、指先でちょっと帯を押さえているだけでよかった。本当に昔の女性が毎日こんな苦しいものをまとっていたのか疑問に思えてくる。案外、胸元がはだけていたり、帯から紐がのぞいていたり、雨の日なんて裾を膝までからげていたのかもしれない。
「できあがり」
 そう言われて顔を上げると、鏡には見知らぬ女性が映っていた。桃色の薔薇模様の着物に、もう少し深い紅色の梅模様の羽織。帯はくすんだ古代紫の縞柄で、半襟の菫色と同じ色相をくり返している。
 一方、椿は白いツバキが染め抜かれた桔梗色の着物で、帯と半衿に若草色を忍ばせている。帯留めは翡翠の石で、ヒスイカズラらしい尖った花が浮き彫りにされている。
「この花知ってる?」
 私の視線に気づいた椿がそうきいた。
「植物園の温室で見たことがある」私は自分の帯を軽くたたいた。「絵の具で塗ったみたいにくっきりした翡翠色の花。ほんの数日間しか咲かないって職員の人が話してたよ」
「しかも、日本じゃほとんど結実しないの。受粉を助けるオオコウモリがいないから」
「その場合は人工受粉?」
「絶滅危惧種だから……そう、それも仕方ないかもね」
 椿はスツールに腰かけると、手早く長い髪を巻き上げ、白蝶貝の簪を挿した。開いた袖の辺りからかすかに薔薇の香りが漂ってくる。鏡台の上に置かれた香水瓶は半透明で、硝子に小さな気泡が閉じこめられ、表面には金色の人魚が描かれたシールが貼られている。
「魔法が解けないうちに出かけないと」
「魔法が解けたらどうなるの?」
「髪がほどけて、口紅がよれて、帯が……」
 そこで口を閉ざすと、椿はスツールから立ち上がって私の手を取った。
「ほら、早く」
 椿がフロントに鍵を預け、紫苑に暖炉のことを伝えている間、私はロビーで屏風の片割れと再会していた。
 昨日は気づかなかったが、龍の目は錆びた金色で、その同じ色彩が生贄として供された娘の眦を淡く染めている。つまり、この龍と娘は同じ目をしている……それとも、かつて同じ景色をながめたことがあったのかもしれない。その光が忘れられずに、いつまでもまぶたにうっすらと残っているのだろう。娘の朱唇の中央にも淡い金がまぶされ、昇りだした満月を思わせる禍々しさを孕んでいる。
 しかし、椿が戻ると私の夢もほどけ、屏風はただの豪華絢爛な障屏具と化してしまった。
 やや反り気味の屋根に鼠色の瓦を並べた和館は、白い漆喰塗りの壁を傾きかけた陽の光にきらめかせていた。
 梁の木材の焦茶色をわざと目立たせているのは洋館と同じだが、腰張りの板はさすがに年月をへてくすんでいる。奇妙なのは屋根の右方にのぞく櫓で、てっぺんに青銅製の鐘があるところをみると、昔は時を告げる役割を果たしていたらしい。
「火事のときにも鳴らしたのかな?」
 私がそうきくと、椿はまぶしそうに薄茶色の瞳を細めた。
「長い歴史の中で、一度くらいボヤ騒ぎがあってもおかしくはないね」
 漆喰の壁の焦げ跡を思い出すと、同時にその匂いまで漂ってくるようだ。
 それとも、従業員が落ち葉を集めてどこかで燃やしているのだろうか?
 もっとも、ホテルで実際に鐘を鳴らすほどの火災があったとしたら、あんな焦げ跡だけですむはずがない。たかが人影程度のしみを気にする方がどうかしている……そう考えて、私は椿が話してくれた異様な「影」を思い出した。あれは私を楽しませるための作り話だったのか、疲れていた椿の幻覚にすぎないのか……。
 薄暗い地下道にたたずむ毛羽立った影。金色の瞳。誰も気づかない。気づいても無視してしまう何か。
「書庫」
 その声に振り向くと、椿が櫓を仰いだまま言った。
「あそこは今書庫になってるの。螺旋状に本棚が並んで、エッシャーの騙し絵かデジデリオの廃墟みたい」
「異世界ってこと?」
「機会があったら連れていってあげる。でも、今は違うところへ」
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